90年代の東京で二人の青年が出会った。画力至上主義を公言して憚らない山手と、画力よりも漫画のウマさで勝負する帆足。二人は友人として、ライバルとして、互いに認めあい、ときには蔑みあいながら、ともに一流漫画家を目指していた。そして、もうひとり、彼らの仲間に加わったのが、美術系の予備校生だという兵頭だった。漫画家志望ではない兵頭は、二人と付かず離れず、微妙な間合いを取りながら、「業界」を巧みに遊泳していく。理想と現実の間であがき、時代の流れに翻弄される彼らの明日は!?―。
- 作者: ゆずはらとしゆき
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2012/05/16
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昔、呉智英が内田春菊との対談で語っていたことば。「賢者の誘惑」にあったはずだが、これだけ本棚に無いので記憶で書く。
- 作者: 呉智英
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 1998/12
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だが、その人工衛星のゴミは、地球の重力を脱するのに、わずか1mだけ足りなかったのかもしれない。それでも落下してしまえばただのゴミだ。なら、落下しそうな人工衛星は事前に解体して、その部品を乳母車にしてあげるのが本人のためなのか・・・? 」
冒頭に紹介した、私には余り馴染みのないジャンルと作家であるこの小説・・・これを、ふとした縁で知って読んだ時、自分の脳内で何度もリフレインしたのが、上の呉智英の言葉だった。
表題にしたように、この小説をまったく未知の読者に一言のコピーですませるとしたら「90年代が舞台の『まんが道』だよ」というのが一番妥当だと思う。現在、作者本人が続編を描いているように、まんが道というのは極めて広い普遍性を持った作品であり、80年代を島本和彦「アオイホノオ」が多分にパロディ的でありながら描いているように、手法を小説、舞台を90年代にしても成立し得る。
そういう話だといえば、当たらずしも遠からずだ。
ただ、これも表題に挙げたように、こういうコピーでも通じる−−−「挫折者たちの『まんが道』だよ」と。
いくつか、そういう趣向の作品はあるし、例えば唐沢なをき「まんが極道」もタイトルからしてだいぶフザけた(笑)「まんが道」パロディなのだが、「挫折者たちのまんが道」を描くものとしては、実はギャグの中に相当なリアリティ、本質的なテーマを秘めている。
その系譜に、位置づけられるのじゃないかと思うのです。この「雲形の三角定規」という小説は。
舞台は2010年の夏、山手映輔 帆足弓彦ーーー「中年にさしかかった」というが、16年前に専門学校に入学したとあるから、まだ30代か。彼らが、その時代につるんでいた仲間・兵頭秋幸の葬式のため、関西へ新幹線で向かう。
二人は、共に売れっ子漫画家を目指していた。
山手は途中でゲーム業界に勤めそこで結婚、その後リストラがあって奥さんは勤務を続けながら、自分は漫画業界に復帰して、先月10年ぶりの単行本が出た。
帆足は独身のまま漫画を「細々」と描き続ける・・・その場を獲得することには成功しているが、それほどの人気作が出ているわけではない。
そんな2人が、アヤシゲでも有り華やかでもあり、さらには謎でもある「各種ギョーカイ」を転々としていた兵頭を弔うための新幹線で、かつて「ハンド(山手)」「レッグ(帆足)」「ヘッド(兵頭)」と呼ばれ・・・心からの仲良しよこしではない、優越感や劣等感、怒りや苛立ちがないまぜとなった関係を保っていた時代(※本家「まんが道」は、実作者のA氏が徹底的に負け役、道化役を買って出てこれを避けているが、たぶん本当はこういう感情もあったのではないか、と思わせる・・・)に思いを馳せる。
ここに、出版・漫画・ゲーム業界ならではのひと癖もふた癖もあって・・・いや、六癖ぐらいかな(笑)、そういう脇役が絡み、また人物の過去と不思議な行動様式を廻るちょっとした謎ときもある、そういう趣向だ。文章は平易で読みやすい。
90年代の「漫画界をめぐる初歩的Q&A」を分かりやすく解説
自分がこれを読んでありがたかったことは・・・実は、というほどでもないか。自分はこの90年代の「おたく文化」を知ってるようで全然知らなかったのですよ。
いまでもしばしば、そのへんのことは分からないままだったりするのだが、TVアニメーションも「パトレイバー」以来ほぼ見ないで済ませていたし(てか学生時代は関東圏の放送局を見る環境じゃなかった。)、ゲームも90年代に旧ファミコンを買って「信長の野望」「ウィザードリー2」「ファミコンウォーズ」だけやり続けて・・・(未だにドラクエシリーズを一回もやったことがないままだ)
そんなことをしている間に、角川書店、エニックス、徳間書店がどんどんと、ジャンプやサンデーのようなメインストリームとは別のブームを巻き起こし、ライトノベルなんて新ジャンルも生み出し・・・そんな90年代。
まだパソコン通信の時代だから、そういうものの「存在」をキャッチするアンテナの範囲も、今の数千分の一規模だったろう。
そんな中で生まれ、たぶん今でも通じる各種の「ゲームのルール」のあれこれが、フィクションであるからこそ効果的に提示され、分かりやすくなっている。
たとえば、漫画のスクリーントーンというのは「重ね貼り」というのをすると、いろいろと効果的らしいのだが、
濃度の変化を表すグラデーショントーンの重ね貼りは、ほんの少しずれるだけで汚くつぶれてしまう。
知らなかった・・・スクリーントーンの重ね貼りって、何十年か前に「こち亀」で劇画刑事・星逃田が登場したときに「俺の服はトーンの重ね貼りだ。でも重ねても、ベタ同然に見えるだけだろう」というギャグでしか意識したことない。
その重ねるとき、ズレを意識的に調整しているとは・・・漫画家さんよありがとう、です。週刊連載とか人間、不可能だよ(笑)。
で、やっぱり80年代だ90年代だとやっていく中で、そういう作業や仕事量はどんどん複雑化していったらしい。我ながらひとごとのように言うけど、私を含む、読者が欲して、そうなった。
そういえば藤子不二雄(まだ共同名義)の「二人で少年漫画ばかり描いてきた」でも「いまは、絵を細かく細部まで描かないとすぐに読者からそっぽを向かれる時代だ」といってたものな。そこから30年、この細部化は止まらなかった。
そして、「漫画の絵柄」には・・・流行があり、はやりすたりがある。
たぶん、自分がどーも最新のゲーム系雑誌の漫画とかに敏感ではなく…、いや読んでいるほうではあるけど、そこで好きになるのはちょっとしたメインストリームとの「ずれ」がある作品が多い(看板漫画であろうとなかろうと)のは、この絵柄の流行へのアンテナが鈍いからだ、という気がするわあ。
そういえば、自分はイラストレーションの1枚絵にはほとんど関心がないし、ゲームの「キャラクターデザイン」は想像すらしてなかった。
「偏執的で神経質な絵が上手いとされていた」
「記号化にも微妙な匙加減が求められる」
「三点透視図法を用いた背景には干渉縞(モアレ)で光の方向と反射を表現するためスクリーントーンを微妙にずらしながら幾重にも貼り・・・」
以前「うた恋い。」という漫画や、各種のネット宣伝漫画を評して「あまり個性を感じないけど、それはある意味みんなの技術が『底上げ』され『みんなが上手くなった』からなのだろう」という趣旨の文章を書いたが、
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120606/p5
ああ、こういうふうにしてその「底上げ」はなったんだなあ・・・、とちょっと仮の答えを得られたような気がして嬉しかった。
さらに、私にはよくわからない「絵の流行」についてはこんなやりとりもある。
「でも・・・絵描きってのは・・・ありゃ、アイドルっすね」
「…どういうこと?」
「どんなに可愛くても、アイドルは数年で飽きられてしまうじゃないすか?」
「絵が上手いだけで生き残れるやつなんて、そうはいない…と?」
(略)
「じゃ、漫画家は…なんだよ?」
「女優じゃないすか?」
「女優?」
「ほら、アイドルと違って、婆さんになってもできるし…」
絵柄は時代遅れになっても、漫画の技術があれば、生き残れる…
「なるほど。正しいかどうかは判らんが、面白い見方ではあるな…」
同時に「90年代業界戦国史」「90年代漫画家残酷物語」も。
ゲームやライトノベルのコミカライズというのも角川書店が漫画雑誌を出してから増えに増え、いまは「人気が出たけど漫画化されていないライトノベル」とかのほうが少ないんじゃないだろうか。
そんなコミカライズをしている山手に・・・この作品では原作となるゲームのデザイン作家が
あんなのはアタシの<プリロッテ>じゃない!
とクレームをつけるシーンがある。
おまけにこういうコミカライズは、著作権を持っている会社が印税を数パーセント持っていくので、実際の作者の取り分が減っていく(笑)。
…通常、著者に払われる印税は10%で、原作付の場合は原作者の取り分として3-4%引かれるのが相場だが、メーカーチェックだけで7%引かれるのは・・・
そして。
…「少年ロケット」の休刊は突然のことだった。
前――8月発売郷野次号予告にも、休刊の胸は記載されていなかった。
しかし、同じ日の朝刊経済面に<八島書店>の経営権が八島書店から銀行筋へ譲渡・・・
……「身も蓋も無い話になりますが…編集長が交代しまして、編集方針も変わりました」
<旋風社>の名刺を差し出した若い編集者は、ひどく忌々しげな口調で言った。
「交代? ああ<灼熱舎>の件ですか・・・」
これらがどこにモデルがあるのか、ないのかはよく知らない。というか敢えて調べない(笑)。だが、何かを反映していることは間違いないのではないだろうか。
末尾に
「この作品は時代の空気を描写する<虚構の青春小説>――フィクションであり」
と断り書きがある。
「漫画・出版縮小の時代」。それでも”煉獄”に踏みとどまる者達
結末を詳しくいうのは避けるが、彼らは最初に書いたように、世俗的な成功を決して収めてはいない。ただ、完全にこの「虚業」の世界から離れて―あるいは離れざるを得ない状況に追い込まれて――実業の世界に戻っているわけではない。それなりに仕事があり、それなりに食えないわけではない。
天国でも地獄でもない、カソリックでいう「煉獄」に身を置いている、と言ってもいい。
この背景に・・・末尾の『時代の空気』をいうなら、インターネットによって漫画や出版のパイが縮まった、ということは確実にあると思う。客観的に見て。
「面白いものは売れる、ネットで時代が変わったなんてのは怠け者の言い訳」
「ネットが人気作を生んだ、才能を発掘した例もたくさんあるじゃないか」
というのにも一面の真実があることは重々承知した上で・・・。
この本の冒頭の「時代」、自分は実際にむさぼるように、1日1冊、2冊の割合で読書に耽溺していた。だが、ネットを読み、ついでに掲示板やブログに執筆(笑)するため物理的に1日の時間をとられ、読書量は減った・・・そんな、個人の実感からしてもやっぱりネットは書籍・漫画の居場所を狭くしたと思っている。
そんな「漫画縮小の時代」の波を受けて、この小説のかなしさ、暗さはあると思う。
他の出版だっておそかれはやかれ、こういう風景は来るのだろう。
だが――――
最初に呉智英の言葉を引いたが、それと対になるような言葉を、この作品が最終盤になるにつれて思い出したのである。
妻子持ちの中年男性・木原は、ある日、チンピラ風の男が、空手を使う男に倒されるのを目撃、後日、その一人に、因縁をつけられてしまう。その時の悔しさから、空手道場の年配向けコースである「ビジネスマンクラス」に入門した木原だが…。夢とは?真の強さとは?「強くなりたい」と願う、すべての人に贈る痛快格闘技小説。
- 作者: 夢枕獏
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2011/08/04
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孫引きする。
http://homepage1.nifty.com/dame/books/karate.htm
「才能というのは平等だと思いますか」
「平等ではないと思います」
で始まる、主人公木原と道場主秋葉との会話。「自分には才能がないのと同じくらい、自分には空手しかないってことがわかるんすよ」
そう語る、ビジネスマンクラスの指導員、今江。
空手に打ち込み、そこで人々と触れ合う中で、木原は改めて、己の生き方を問うていく。
秋葉は、こうも言う。
「人にはね、自分を滅ぼす権利があると思うんですよ」
そう何をしたっていいのだ。選択の結果、後悔したっていいのだ。大切なのは、自分で選び、その結果を引き受けることだ。
この主人公2人も、まだ30代の前半ではないか。「権利の行使」はともかく、未来はまだ自分の手のひらの上にある。
登場人物に、そして読者たちに幸あれ。