タイガーマスク「運動」とか「現象」と付くようになったけど、各地の動きはたとえばここにまとめられている。
http://sadironman.seesaa.net/article/180247352.html
最初に「伊達臣人ネタ」済ませとくね(笑)
■”タイガーマスクこと伊達直人”が各地に出現。日本で複数の人が「彼」も連想
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110111#p3
の続きだけど、あのメールをもらったのは相当早いほうだったんだろうが、のちに、この大御所までそのネタに参戦しやがった。
というか、またコイツか(ほめ言葉)。
■漫画家・平野耕太氏がランドセルを送りたい件
http://togetter.com/li/88280
hiranokohta
俺も伊達臣人って名乗って恵まれない子供にランドセルを届けたい。もちろん雷電と月光と飛燕もいる。
もちろん孤児院まで直進行軍。孤児院の前で喉が裂けて血が出るまで大鐘音。最終的にはなんか知らないけど、油風呂。王大人が死亡確認。(生きてる)
伊達直人に続いていろんなキャラから寄付が寄せられてるみたいだけど、もらった施設がちょっと困るようなキャラ名で送りたいな。
「健やかに育って立ち向かってこい。デスラー」とか、
「じつはこの施設の子全員、わしの子。グラード財団」とか
「14歳になったら迎えに行きます。NERV」とか。
古田織部「なあに、拙者の送ったこのランドセルも、いいものでござるよゲヒヒヒヒヒヒヒヒ」
実際に「ムスカ」名義で施設に送った人もいるとかなんとか。
http://netallica.yahoo.co.jp/news/162516
連鎖して行く運動が、悪乗りやパロディ、過剰によって変わっていくさまは一寸楽しいものがある。
「匿名の善意」に関して、ネット上の「匿名」ともあわせて考える。
というか、考える前にこの作品をあらためて紹介したいと。
- 作者: 志賀直哉
- 出版社/メーカー: 新潮社
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いやー、のっけから展望が狂ったんだけど、1920年(大正9年)に発表されたこの作品、てっきり青空文庫にあるかと思ったら…、作者が
まあ、あまりに有名だからネタばれとかは気にしないので、ここから後は未読の方はそれなりに注意して読んでください。
http://sakubun.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/07/post_09fe.html
…仙吉は神田のある秤(はかり)屋に奉公する小僧である。小僧だから金はない。仙吉はよく番頭たちが鮨(すし)の話をしているのを聞いて、1度思い切り鮨を食べたいと思うようになった。
ある日、仙吉は…(略)思い切って屋台の鮨屋に入った。……意を決して目の前に並んでいる鮪(まぐろ)鮨の1つに手をつけた。すると主人に<それは 1つ6銭だよ>と言われてすぐ手を引っ込めた。そして仙吉はいたたまれなくてその店を逃げるようにして出た。
そのとき、その場にAという若い貴族院議員がいた。Aは小僧を気の毒に思った。ある日……Aは仙吉をうまく店から連れ出し、鮨屋に連れていった。Aは店に入らず、仙吉だけが店に入り、そして腹一杯鮨を食べた。仙吉は幸福の絶頂に達した。
ここまではなるほどと、非常に「わかりやすい」ストーリーだが、この後一転して「わかりにくい」反面、わかる人には深くわかるような話になっている。
Aは自分の行動をどこか偽善めいていると感じ、うしろめたいようなさみしい気持に襲われた。逆に、仙吉はAのことが忘れられなかった。彼は悲しいとき、苦しいとき、かならずAのことを思った。(略)Aにとっては偽善めいたことが、小僧にはそれが神の行いのように思われたのである。人生の不合理さを健康的に捉えた作品といえる。志賀は子供の純真さを通して、人生の奥深さの一旦をかいま見せてくれたのである。
実際に作品を読んでみると、基本、すしが食いたくなる(笑)。
そういうグルメ小説でもあるけど、この貴族院議員A氏のもやもや感は非常におもすろい。小説だと、ここであまり空気を読まず「気にすることないわよ。つーかあたしにもすし食わせて」というピントはずれ?の激励をする奥さんが出てきて、そのかみあわなさも愉快。
でもね、その奥さんも最終的には「なんとなく、気持ちはわかるわ」と納得するし、読者のたとえば自分も納得する。
一例を挙げると、電車で高齢者や障害者に席を譲る…というあの行為に残るむずむず感とかね。自分も無駄にキャリアを重ねて「ほぼ無言のゼスチャーで動作を終わらせる」「譲った席からやや離れて立つ」「手に持った本にすぐに目を走らせる」などいろんなメソッドを身につけているけど、席を譲った瞬間に当事者じゃない車内の乗客が視線をちょっと向けるのは、いまだに慣れないものがあるわ。
「善行や宗教心は人にひけらかさず、こっそりと知られないように行いなさい」というのはキリスト教方面にもそういうメンタリティはあるはずだし、聖書やユダヤ経典にも記述がある、とは思う。だけど、それはそれとして押しなべて、寄付などの善行に関してもアメリカを中心とする諸外国のお金持ちは悪びれずどーんと名前を出して行っている、ような気がする。
(このへんから印象批評で、統計的な事実確認はできてない。できればほしい)
で、日本だと(そもそも寄付文化や税制システムなどの不備などで寄付の絶対数も少ないと思うけど)上の「小僧の神様」的な感覚が、あからさまな寄付や善行を抑制している理由のひとつのように感じます。あくまでも直感的な印象論だけどね。また補足しておくけど、「小僧の神様」的感覚ってのは個人的には非常に好ましい、大事にしたい繊細な感覚だと思うよ。
さりとて完全に匿名で寄付行為やら何やらをするのも、また寂しいものがあったりする。善行などに付随する自己顕示欲、実はこの割合がことに日本では非常に複雑な−−−おしなべていうと控えめ方面に多いという−−特徴性があるんじゃなかろうかい。
そこで今回の「タイガーマスク」は、ちょうどメディア報道が過熱したこともあり、琴線に触れる日本人が、ある一定程度いたんじゃないか…と思います。報道などで自分の行為が報じられるのを見て満足し、同時に自分は名乗らない。
その是非を論ずる前に、もしそういう善行発揮の場への需要があったのなら、そういう受け皿を創ることは結果的に寄付・福祉を後押しすることもできるだろう。
ネット・SNS上の匿名(HN)の日本の多さ、諸外国との比較について
まもなくフェースブックを扱った映画「ソーシャル・ネットワーク」も上映され、フェースブックの世界的なSNS一人勝ち状態にも注目が集まっている。
インターネットというのは当然各国のインフラや、利用コストの格差も大きいけど、基本は世界で1990年代にヨーイドンでスタートを切った大衆文化。ここでの振る舞いの「お国柄」の比較は、かなり国民性や民族性のサンプルになるんじゃないか、と思っている。
そしてソーシャルネットワークやtwitterも各国で普及する中「日本は目だって匿名HNが多い」という結果になったら、上の話に出てきた、今回の「タイガーマスク」現象ともちょっとつながるんじゃないか、と思ってます。
匿名が誹謗中傷するされるとか、政治信条の表明が与える実社会への影響の有無とか以上に(没政治的な、曲の演奏動画なんか見ても顔や名前を出す人は少ない)、要は日本人のかなりの割合で、善行と同じように「論」や「表現」も、それ自体に気恥ずかしさを感じる人が多いかと。とはいえ、論も表現もそれ自体の楽しさがもちろんある。だからその均衡のひとつとして、現状の日本のネットがあるんじゃないかとね。
表現への気恥ずかしさ、といえばカラオケはそれでも相当日本人を変えた。カラオケが世界に広まったとき、「あの、トゥーシャイな日本人がカラオケで歌うとなると人格が変わる。面白いデスネ」といったスタンスでの紹介も相当されたんですよ(映画「ガンホー」など)。
テレビの「街頭録音」も当初はマイクの前でしゃべる人、公に意見を言う人を集めるのに一苦労だったとか。
カラオケのような何かをきっかけにして、どこかで変わる可能性は相当ある気もする、けれども。
時間が無いのでオチというか結論なしで、ここで打ち止め。