http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100612/p1
……彼の国で法治国家における民主的な――疑いも無く民主的な――決定によってムスリム女性からスカーフやブルカが剥ぎ取られた/剥ぎ取られようとするのを見る時,そこで擁護されている「自由」とは何であるのかと,そう問わざるを得ない.
モンテスキューはピョートル1世がロシア人男性に髭を切らせたことを問題視したが,サルコジはフランス人女性に布を脱がせようとしている.そこで実現されるのは果たして,誰のどのような「自由」であるのだろうか.もちろん,「ライシテ(非宗教性/政教分離)」もまた大革命の「遺産」――革命が終わったとすれば――であり,それは国家のリベラルな中立性の要請とも一致する(もっとも,単純化を拒むこの問題については,内藤正典・阪口正二郎編『神の法vs.人の法』(日本評論社,2007年)などを参照).「村の小さな学校の教室に掲げられていた十字架をとりはず」した記憶(工藤庸子『宗教vs.国家』講談社現代新書,2007年)は,今も共和国の隅々に受け継がれているだろう.しかしそれでも,ルノーが「よく理解された個人の利益こそが、法治国家を機能させる唯一のバネになる」と語る時,その「個人」とは一体誰なのか, と反問したくなる(略)
文中に出てくる
神の法vs.人の法 スカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層
- 作者: 内藤正典,阪口正二郎
- 出版社/メーカー: 日本評論社
- 発売日: 2007/07/30
- メディア: 単行本
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で紹介し、自分も読んだけど
- 作者: 工藤庸子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/01/19
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ヨーロッパ「市民」にとって宗教とは何か?キリスト教とイスラームとの「衝突」という。だが共和主義のフランスではカトリック教会が敵だった。「政教分離への闘い」で、市民社会はどう成熟していったか。
権力をめぐって対峙するカトリック教会と“共和派”の狭間で、一般市民は、聖職者は、女性たちは何を考え、どう行動したか。『レ・ミゼラブル』などの小説や歴史学文献を読み解きながら、市民社会の成熟してゆくさまを目に見える風景として描き出す。
は読んだかな?未読かもしれないのでメモ代わりに引用した。