【トンガ噴火お見舞】INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「オールタイムベスト」補遺。俺が日本映画で一位に選んだ「遊びの時間は終わらない」とは?

http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/
で募集、集計し、結果発表( http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/20071216 )の他に多数の関連エントリもあるオールタイム・ベスト。

これで、自分が選んだ際の一言コメントで
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20071204#p5

3.遊びの時間は終わらない(本木雅宏主演)

これはあとで長文をUpします。この作品の権利を、ハリウッドが買わないのは解せない。

というのがある。これを今年中に終わらせておこうと思う。
実はこれ、ブログを始める前の文章があるからこう書いたんですよ。今までUPしなかっただけで。

自分は「擬似イベントもの」が好きだという話は何度か書いたことがあるが、そういう点やマスコミ・メディア論にも話が飛んでいる。だいぶ話題は古かったり、このブログで既に紹介しているワグ・ザ・ドッグが未見だったりと時代を感じさせるが。

それでは、UP。映画紹介の部分だけ太字にしておきましょう。あと文章がやっぱり若書きで恥ずかしいな。一部は加筆修正している。

ブラウン管の向こうの神―――擬似イベント傑作選

–––––残念ながらまだ見ていないが、今度公開された映画「ウワサの真相 ワグ・ザ・ドッグ」に、非常に大きな期待をしている。
マスコミという怪物。この生まれて200年にも満たないながら、第4権力とまで呼ばれるようになったパワーを考えずに、社会を見る事はもはや不可能なのだ。

戦争も、犯罪も、美談もすべてブラウン管を通して、あるいは印刷された文字を通して、神々への供物になっていく。我々「視聴者」という神への……。
さて、「ワグ・ザ・ドッグ(普通、犬が尻尾を振る「ドッグ・ワグ・ザ・テール」というべき所を(尻尾が)犬を振る、つまり本末転倒、下克上といった意味)」はとにかく楽しみであるが、このテーマを扱ったものはこれが唯一ではない。
海外でも日本でも、これに関する傑作がジャンルを問わず出ている。特に日本では、一人の天才がこの世界を開拓したために、大きな収穫を得ている。もちろんご存知の通り、筒井康隆の手によってだ。


出世作東海道戦争」(ハヤカワ文庫)、初の長編「48億の妄想」(文春文庫)をはじめ、思うままに短編を挙げても「俺に関する噂」「火星のツァラトストラ」「小説「私小説」」「晋金太郎」「ベトナム観光公社」……これら一連の作品はほとんどが1960-70年代に書かれたものだ。まさにそういう意味で時代をはるかに先取りしていたのであるが。


海外映画では「ネットワーク」「狼たちの午後」「靴をなくした天使」「ナチュラル・ボーン・キラーズ」。そういえば「第三の男」のモデルになったのもメディア王にして、「米西戦争を作った男」ハ―ストだったな。


日本映画では、芸能レポーターのの生態を奇妙な形で描いたファッキン・内田裕也(ユーヤ・ウチダ)の「コミック雑誌なんかいらない!」がある。ウチダ自身が芸能リポーター役で出演し、松田聖子結婚や豊田商事刺殺事件に材を取ってメディアの軽薄さと無責任さを皮肉っている。その後、「エロチックな関係」という愚作(筆者が見た映画の中で確実に最悪の部類に入る)を撮ったユーヤだけあって、きちんとしたストーリ−になっていないのだが、そのぶん変な力強さを感じさせる作品だ。

コミック雑誌なんかいらない

コミック雑誌なんかいらない

あの三浦和義が、「三浦和義」役で出演しマスコミに追い回されるというよーわからん映像もある。(そういえば最近、推理作家島田荘司が書いた「三浦和義事件」が常時された)もあるところが、あの時代を感じさせる。

上をキワモノ・変化球とするなら、もっとも直球というか、筒井が命名したこれら「擬似イベント・テーマ」とはこういうものだということをわかりやすく見せてくれる上質のエンターテインメントが、本木雅浩主演の「遊びの時間は終わらない」である。


遊びの時間は終らない [DVD]

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【あらすじ】……ある小さな街の銀行支店で行われた警察主催の防犯訓練は署長の提案により、一風変わったやり方で行われることになった。すなわち、犯人役はシナリオなしで自分の判断に基づき行動してよい、警察側もそれに応じてアドリブで動き逮捕する、というものだ。


得意満面でこの「新方式」をマスコミに自慢する署長だった……が、一つだけ誤算を見逃していた。犯人役に選ばれた警官は糞マジメで融通が効かず、おまけに古今の事件に通じた犯罪オタクだったのだ。彼は犯人を「逮捕」するべく乗り込んだエリートキャリアの変装を見破り、モデルガンを向けて「バン」と叫ぶ。当惑するキャリアに向かって「あなた、死にました」(笑)。
そしてその後も、次々と逮捕しようとする警察側の裏をかく戦術で翻弄する。



最初の予定が大幅に狂い、本気で「犯人」と対峙しなければならなくなった警察は大慌て。本部長は派遣されるは機動隊が配備されるは、あげくの果ては警視総監までが出張る大捕物に、この「強盗ごっこ」は化していく。間に「タンマ」をはさみながら……。


そしてこの混乱に拍車をかけるのがTV局から取材に派遣されたディレクター。視聴率の鬼にして、騒ぎを大きくすることにかけては天下一品。警察がアンフェアな形で終わらせようとすると「今のは無効です!」とチャラにさせ、警視総監がくると「次期選挙に出馬が噂される総監が、果たしてどのような態度を取るか!見届けたいと思います」と圧力をかける。うーん、確かに「権力に屈しない」ジャーナリストだ(笑)。


フィクションが現実と化し、現実がフィクションとなる滑稽さと面白さを描いた、この隠れた名作を象徴するのがラストシーンで描かれた犯人らの脱出法。何しろ現金……おっと、これを言うのはルール違反だ。


はっきりいって、映像や制作費で日本映画がハリウッドに負けるのは仕方ないんだが、それ以前のアイデアの部分で負けている事が多かった。この作品は「アイデアで負けていない」と胸を張っていえる数少ない佳品である。それにしては知られてないのが残念であるが…。




ついでに、ある奇書を紹介しよう。宅八郎「処刑宣告」(大田出版)。一時はTVにもよく出演していた宅八郎だが、最近はほとんどTVでは見なくなったし、活字でも今はマイナー雑誌に数本のコラムを持つだけになった。当然というか、実際彼の一般的な論説やエッセイはほとんど読むべきものがない。オタクのスポークスマンの役目もいまや岡田斗司夫に独占されてしまった以上、彼の出番はないであろう。だが唯一、他の人には真似のできない分野がある。それは「個人攻撃」と「悪口」(笑)。


それまでも宅は、自分を批判した作家や編集者に、ストーキングやビラをまいたりなどのイヤガラセを行って、その一部始終を雑誌に連載するという独自の芸風を誇っていた(笑)が、あるとき「週刊ポスト」に批判記事を掲載されたのを恨み、「復讐」を開始する。すなわち週刊ポストの幹部を徹底的にストーキングし、そこで見つけた彼の女性問題を「取材」しかえすことだった(おお怖。)。「マスコミが取材する権利があるなら「個人」だって取材の権利があるだろう」という宅の論理は、とりあえず正しいのである。週刊誌やワイドショーのムチャな取材方式をそっくりやり返すところは、議論としては詰め切れていないところもあるがいつもTVレポーターの傍若無人な振る舞いに辟易している人にとっては、一服の清涼剤になるかもしれない。

その後宅は、交通事故の関係で逮捕されたのをきっかけに一斉にワイドショーで揶揄・批判された。さあこれで収まるようなタマではない。ワイドショーを全てビデオに収めいちいち「復讐」を宣言。出所直後にわざわざ記者会見を行い、その足で週刊ポストのある小学館に乗り込んでいくのだ。記者会見の時、ビデオカメラをリポーターたちに向けその映像を「宅が自由に使います」と宣言するとリポーターの顔がこわばる…なんてくだりは、他の報道被害者も使いかねないところだ。

宅はその後、ストーカーやプライバシー暴きを対マスコミではなく、論争相手に仕掛けたりしたことで信用をなくしていくのだがそういう事は置いても、この本は賛否を超えて読まれるべきだと思う。まさに「奇書」の名に恥じないものだ。



「映像のトリック写真のまちがい」なんてのも面白い。スターリンがまだソ連で、ヒラ幹部の一人だった頃に撮られた写真が、彼が偉くなるにつれて写真の中に写る彼の姿が、どんどん大きく、高い位置になっていく。そして一緒に写っていた幹部が、粛清されるにつれ次々と消えていく(笑)。「写真はウソをつかない」というが、確かに独裁と言論操作のあほらしさを、正直に伝えるなあこれは。



そして最新の本。沢木耕太郎がつい先日「オリンピア」というベルリン五輪についての本を出したが、そこで数章を割いて例の「民族の祭典」を撮ったレニ・リーフェンシュタールにインタビューしているらしい。

オリンピア ナチスの森で (集英社文庫)

オリンピア ナチスの森で (集英社文庫)

ナチス党大会を完璧な美学のもとに美しく撮ってしまいファシストと呼ばれ、ベルリン五輪ではそのナチスの思惑を超えて、国威発揚でもゲルマン民族の優位性でもなく全ての人種の躍動する姿をフィルムに残してしまった天才監督。その才能のゆえに、罪を背負った女性監督の話は、これまで書いてきたことと無縁ではないはずだ。これは「笑の大学」論でも書いたな。