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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

アラファト補遺−−ラビンが最後に歌った歌。


宗教が違うと、死後に旅立つ世界も違うのか、どうか。
だから会えるかどうかの保障もしようがないが、故アラファトPLO議長に先立った、ある中東の指導者がいる。
イツハク・ラビン、イスラエル首相。
1993年、彼とアラファトは、ワシントンのホワイトハウスで、間にクリントンをはさんでオスロ合意の調印式で握手した。
彼らの間に友情があったか、それは分からない。無くても全然おかしくない。

http://www.geocities.jp/beirutreport/oslo8.htm
オスロ合意に至る秘密交渉が大詰めを迎えつつあった時期に、南レバノンのヒズボッラー・ゲリラ掃討の名目で、イスラエル軍は1982年の侵攻以来とされる、空爆と地上軍による大規模な軍事行動を起こしている。その結果、南部レバノンで20万人とも言われる住民が避難民となってベイルートに逃れた。

 無辜の民間人をこれほど大量に巻き添えにしていることについて、道義的責任を感じはしないのか、と外国メディアのレポーターに問われた時、ラビンは

「難民を生み出すことこそが、この作戦の目的である。難民流入の圧力を受けて、レバノン政府もヒズボッラーの活動を取り締まらざるを得なくなるだろう」

そう簡潔に答えている。


アラファトの組織も、クルージング船をシージャックして、車椅子のユダヤ人老人を射殺、海に叩き落した。のちにその残虐行為を質問された幹部は「彼は、きっと水泳がしたかったんだろう」と答えた。


しかし、その二人が最後に、流血の歴史を終わらせるという共通の目的を持ったことは、まぎれもない事実であった。



そして9年前の1995年11月4日、イツハク・ラビンは暗殺された。
その直前、彼は集会に出席し「平和にチャンスを」と訴えた。

「・・・それ(和平達成)は、困難や苦痛と闘う過程であります。苦痛を伴わない道など、イスラエルにはないのです。しかし、和平の道は戦争の道より好ましいのです。私はこれを、かつて軍人であり、今は国防相となって国防軍兵士の家族らの苦悩を見ているものとして、皆さんに申し上げるのであります」



そして、銃弾に倒れる前にはこの歌を歌った。

「シール ラ シャローム」=”平和の歌”

陽よ昇れ 清らかな祈りを朝日に捧げよ
それでも だれもかえってはこない
命のともしびは消え 土に葬られたものは
慟哭で目覚め 蘇ることもない
闇の淵から だれも戻ってはこない
ここでは勝利の歌も 讃歌もいらない


だから 平和の歌だけ歌おう
祈りを口ずさむのはやめて
平和の歌を歌おう 高らかに!




陽の光よ貫け 花たちを
ふりむくな 旅立った者を
銃を捨て 希望もて顔を上げよ
戦いでなく 愛の歌を歌え
夢ではない だから待ち望むのはやめて
その日をもたらせ
広場という広場で 平和の歓呼の声をあげよ


だから 平和の歌だけを歌おう
祈りを口ずさむのはやめて
平和の歌を歌おう 高らかに!



Y・ロトブリット作詞
村田靖子 訳

彼が歌い終え背広のポケットにしまった歌詞カードは、血に染まった。



蛇足ながら、ラビン暗殺犯の言葉も記録しておこう。
取調べで、組織的な犯行だったのか単独犯なのかを尋問され、彼はこう答えたといわれる。

独りで・・・・・・・・・たぶん、神とともに。