http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20040825#p2
からつながります。要は、第二次大戦中、銃の専門教育も受けていない素人が基本設計を行ったカラシニコフ(AK-47)は、シンプルゆえに故障しない、量産も模造も容易という点をもって世界中に広がっていったわけだ。
そしてこの銃は、いわゆる「民族解放闘争」「独立闘争」の大きな力になったのだ。
そりゃそうだ、補給兵站が正規軍よりまちがいなく劣る勢力は、湿地や砂漠に根拠地をつくらざるを得ない。それでも壊れない銃がなくて、なんで闘えるものか。
そして、目出度くもアフリカをはじめ多くの国が、宗主国からの独立を果たしたのだが・・・
しかし、銃はだからといって消えてなくなりはしない(笑)
今度は旧勢力がゲリラ戦をする番だ。
そして政府内でも反目が始まる。内戦がふたたび起こる。
治安が悪くなれば生活が苦しくなるから、強盗事件が増える。
今度はイデオロギーもへったくれもない、夜盗山賊のたぐいまで武装規模を拡大する。
そのすべてに、「象が踏んでも壊れない」カラシニコフが活躍する。
・・・このカラシニコフを発明した人は、ある意味原爆の父オッペンハイマーやフェルミ以上に世界中の人の命を奪ったわけだが、その事実に懊悩しているか。否。
彼はそのパテントで世界の大富豪になっている・・・わけではないが、半世紀を越えるロングセラーを生み出したことに誇りを抱きつつ、いまだに活動している。
実のところ、小生も彼に「悪魔の発明者」「ドクター・イービル」「芹沢博士みたいに発明品と一緒に東京湾に消えろ」みたいなレッテルをどうしても張る気にはなれない。つうか一部しかわからんか。
創意工夫と才をいかし、最高の作品を作り上げたことに対し、それが何であっても
応分の敬意を払わないわけにはいかないと思うのだ。
というか、その後の悲劇を社会が発明者に負わせるのは、それは逆に技術の奴隷となることだ。
いい意味で”たかが発明者が!”ということである。
その技術をどう扱うかは、我々もふくめた社会の責任であり、権限である。
そこで、悲劇の責任を負うのは・・
===続く====