話はここから始まる。
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『孤独のグルメ』 ドラマ11話で初アームロックきたああああああああああ モト冬樹www
見たい気は満々なのに、毎回見逃してしまうドラマ「孤独のグルメ」だが、酔っ払いの腕を極めるなんてエピソードあったんだっけ?中国人の店員にパワハラする店長を極めた作品は覚えているけど。
そして・・・・リンク先の写真を見る限り、いわゆる腕がらみ、キムラ、ダブルリストロック、チキンウイング・・・名称はなんといってもいいけど、そのたぐいではなく「脇固め」(フジワラ・アームバー)ですかね・・・ここからいくらでも移行できるのも間違いないけど。
似ているようで違う。(※この後移行したのかも)
井之頭流柔術 pic.twitter.com/gCONCA93io
— Sumihiro ✯ ੯‧̀͡u\🐾COLD BLOOD (@ACIDMAN98) 2021年8月13日
まあ、それはどうでもいい。
ことほどさように、関節技とは芸術的な動きであり、アート・オブ・ディフェンスなのである。「真・異種格闘大戦」には世界で唯一、柔術をマスターしたゴリラの「コンガ」が出てくる
それを日本人の必須教養として、知っておくようにするというのは、悪くないアイデアのように思われる。
もちろん、中学までのレベルの競技柔道ではそもそも絞め技・関節技が認められていない。自分がいうのは知識・型・・・・「教養としての関節技、絞め技」であるのです。
型、入り方を学ぶだけにとどめれば、理論的には100%安全。そこでうっかり折っちゃった、とかいうやつはさすがにうっかりさん過ぎるので付き合ってはいられん。
もちろん、そのうちの7割、8割は
適当にめんどくさがりながら授業をやって
そのまますぐに忘れるだろう。それでいい。
百人一首でもサインコサインでもドボルザーク「新世界より」鑑賞でもいい。あとから何かの場面で「ああ、これって習ったことあるよな」とおぼろげにでも思い出して、それが役立ったりすることがあればいい。またそのうち1%か、2%か・・・それで魂がゆさぶられ、後に本格的に習い出し、それを一生の仕事や趣味にする人がいるだろう。
そういう人生の知識や機会、その第一歩として
「関節技の知識」は
あっていいのではないか?・・・という提示であります。
教育とは、そういう「一人の修羅」のためにも、ある。
これについては
(1)「バットに馴れるとそれで人を殴る恐れがあるから野球をやらせないんですか」と。
あるいは
(2)「性教育すると、それで興味を持ち未成年の性問題が増える、という論法ですね」と。
知識を教えると、
それで悪を実行してしまうから無知蒙昧の状況に置いておけ、という「エデンの平和」はあまり歓迎されることではない。
・・・・・・以上は、「机上の空論」である(笑)。
実際に、「知識が増えることで悪を実行する(ことが増える)」ということは、たぶん存在する可能性がある。また、関節技…というか武道一般においては知識さえ得られれば、それを実践すればそのまま「武器」になる。つまり、カラシニコフがアフリカ大陸にばら撒かれて、どの村にもテレビはないけどカラシニコフはある、みたいな状況の再現だったりするかもしれない。
賢明な読者(あるいは暇な読者)には既にお分かりだろうが、上の論考は、最終的には以前から書いている
「教育においては何を教えるべきか」は、究極的には正解のない一種の神学である
という一例として書いたものであった。
興味をもたれた方は、こちらもご覧いただきたい。
■「そもそも教育では、リスクとの兼ね合いで何を教えるべきか」について
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20101219/p2
■武道必修化の議論の続き。そも「体育」は必要か。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110607/p2
■我々には「銃という教養」が欠如している。それはいいことか悪いことか。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090130#p4
■学校教師の脱線・個人的主張授業をどうするかhttp://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110828/p4
なぜ表題には、5つの関節技を選んだのか?
腕がらみ
腕十字
フロントチョーク
脇固め
三角絞め
これがもっとも効果的かつ、覚えやすいからです。俺の独断と偏見。
もっともMMAにおいては脇固めというのはめったにお目にかからない極まり手。だが、それが不思議なぐらい実践的だった…はずだ。
不思議なもので、同じ五体で闘っても年代によって流行り廃りがあるんだよね。
まあ修正をするなら、脇固めか三角絞めを除いて、そこに肩固めやリアネイキッド・チョーク(裸締め)が入るような感じでしょうか。しかし三角絞めは、下からの逆転劇には不可欠だし……と、ジャンルをぐっと限定しても「何を教えるか」神学には結論が無いものですな。
しかし、『クラシックの第一歩はドボルザークの新世界より』だけは、なぜか普遍的な、完璧な”正解!!”という気もする・・・
あれを教育課程に組み込んだ人は慧眼すぎる。
追記「折り紙教育」の是非
上の文章を書き上げたあと、一休みで他の人のブックマークとかをいろいろ経由してのネットサーフィン。そこでこんなのを見つけた。
http://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51701898.html
: ◆hNUN8GRCN. :2012/03/07(水) 00:31:20.22 id:OBrL3QQs0
イ「この紙、キレイだけど何につかうのー?」
俺「あー、折り紙だね。えーっと……」
とりあえず何か折ってみようと思ったのだが…彼らにカブトとかツル折っても理解できるのかな…?と不安が。
まあいいや、と俺が得意な手裏剣を作ってやると、フランスが壊れた。
◆hNUN8GRCN. :2012/03/07(水) 00:34:43.50 id:OBrL3QQs0
フ「フォー!!?それ!フォー!!スリケン!!スリケン!!!?」
パニックを起こし、HGのようになるフランス。しまいには俺を指差し、
フ「ナルトゥ!?ナルトォ!?」いや俺ナルトじゃねえし
小説か実体験かはこの際どうでもいい。
こうやって、他の人を喜ばせることが出来るなら「手裏剣の折り方」はひとつの立派な教養だし、じゃあそれを学校でみんなにマスターさせよう、と。
武道必修化が「日本の伝統をうんたらかたら」というお題目つきで導入されたのなら、「折り紙必修化」だって余裕で理論付けできよう。
もちろん、それは
かもしれんで、折りたいがために折る、そんな修羅の目から見れば邪道もいいところかもしれない。
いや、折るってこの場合「紙を折る」ですヨ?