これは司馬遼太郎がベトナム戦争に関し言っていたことなんですが「アジア、アフリカなど発展途上国の諸国民が、宗主国に対して最初にコンプレックスを払拭したのは、近代兵器が生んだ『武器の前の平等』によってではないか。引き金を引いてタマが当たれば白人、黒人関係なくぶっ倒れる。百万言より、この事実はかれらの頭に残ったろう」と。
日露戦争や太平洋戦争初期の、日本軍の快進撃を見てアジア人が鼓舞されたというのもそういう部分だろうな。
ただし、日本の場合、技術もそれなりに自分たちで開発しなければならなかったし、あるいは大枚をはたいてイギリスから軍艦を輸入しなければならなかった。
しかし、カラシニコフは・・・もってけ泥棒状態だからな。
ソ連その他の社会主義諸国が冷戦時代に生産、第三世界を味方 につけるべく通貨代わりに売りつけた。兵力六万のソマリアに 十万丁、同二万のモザンビークに至っては十七万丁である。 ・・・七四年に開発されたAK74のロシアでの工場渡し価格は 一丁百二十ドル(約一万三千円)だが、防衛庁が発注した国産の 89式自動小銃は、一丁が約三十四万七千円である。
先に触れた司馬遼も、この(ベトナムの)状態にあきれて言った。
「古今東西、戦争してれば片方の補給が尽きる。尽きたほうが負けて終わるのに、ベトナムでは南も北も無限に武器を援助してもらうんだから終わりようがないではないか。冷たいようだが、人類の名において両者を鞭打つしかない」と。
同時に、複雑な武器を自前で作ろうとすれば否応なくある面は「近代国家」たらざるを得ない。
近代国家がいいものか悪いものかはさておいて。
しかしそれなしで、前近代国家、国家以前のぐちゃぐちゃしたところに援助によって得られたカラシニコフの銃声が響き渡る。
新谷かおるの作品に「アフリカの内戦で出動した戦車が、砲塔に兵士の切り落とした首をつるしている」という描写があったが、ちょっとひどいオリエンタリズム(アフリカでもオリエンタリズムって言うのだろうか・・・)は感じるものの、ある一側面はうがっているといえるだろう。
さてそこで
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