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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

下関戦争(1863、64年)の賠償金をアメリカは日本に返してくれてた…その時の福沢諭吉の戯文。

数年前…2015年か、正続の「漫言翁 福沢諭吉」という本を紹介したことがあった。
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漫言翁 福沢諭吉―時事新報コラムに見る明治

漫言翁 福沢諭吉―時事新報コラムに見る明治

続 漫言翁福沢諭吉―時事新報コラムに見る明治 政治・外交篇

続 漫言翁福沢諭吉―時事新報コラムに見る明治 政治・外交篇

別に「さよなら1万円札」というわけでもないけど(笑)、再読する機会があってな。
そこからちょっと引用紹介。


「下関戦争」というのご存知ですかね。たしかこれも数年前…西郷どん真田丸の前だったから3年前かな。
テロサーの姫こと「花燃ゆ」というNHK大河ドラマでそのシーンがあったとか

ja.wikipedia.org

この戦争は、さすが長州だけあって「言うだけ番長」(このネタわかるよね?)だったかの藩はぼろ負け…その後の戦闘民族サツマ人がイギリスと闘った「薩英戦争」とは違ってぼろ負け(薩英戦争については、また別個に論じねばならんだろう)。


ま、それはともかく…実はタイクーンの幕府から明治のミカド政府になり、文明開化も進んだ明治16年…1883年(かな?)アメリカは、この下関戦争で得られた賠償を日本に返還してくれる、という一件があったのだった。

今見たら、このページが大変くわしい。
下関賠償金、返還、下関戦争、賠償基金、スワード、スーワード、Japan-US Encounters 日米交流


でまあ、憲法発布と国会開設を控えた日本ではやっぱり返してくれたってことで、米国への好意的ムードが一気に高まり、ならばこの返還されたお金を国際親善、日本と諸外国の友好のために使おう、なんて意見も出ていたらしい。

その時に、早すぎた風刺コラムニスト、福沢諭吉がかいた文章は…
以下は「続」のほうの「条約改正騒動」と題する章からの引用。

一筆啓上仕り候.

下関の賠償金を今回米国政府において返還相成り候につきては、 小生も日本3600万人中の一人として米国人民のため一言恐悦申し述べたく候.
かくてこそ世界第一の共和国民、我々日本人の親友なりとて世界万国の人に吹聴致し候ても愧 かしらぬことと存じ候。しかし先日、貴社時事新報にも論述相成り候通り、今回この世界第一の米国人が大に前年の非を悟りて 取るべからざるの金子を返却したるは至極神妙なることにして 多諸国民が不正金を呑み込みて吐かざる者とくらぶれば論も表情もなきことながら米国人はすでにその日を悟りたり さとらば即ちズンと悟りて全く非の字なきやういたしたしと申すは、 この元金78万円を火の国に利用して、20年の間に生み出したる利子は100万円にも相成りおおるよし。母金が取るべからざるものならば、子金もまた取るべからざるものならん。
隣の孕み牛を無理に生け捕り、我が家に安産せしめて、母牛の価78円になるはお返しもすが、子牛の価は100円にてもこちらに生まれたるものなれば、こちらのものなりとのご挨拶は、ちと分かりかねる次第に候。
(略)
さて我が日本人民中には、この78万ドルの使用上に関して色々と心配するものあり。あるいは横浜に飛脚船を横付けにする桟橋を築き、米国人はもちろん当時の相棒 英仏蘭諸国人が日本渡来の節、上陸の便利不足なからしめんには、長く米国人の好意の紀念物たるべしと。
その他何といいかんといい、妙案山のごとしといえども一向に感服すべきものなし。
小生の考えにては、この金を何か一廉の紀念用に消費するはもちろんのことなれども、桟橋や飛脚船の如き普通一般の有用品に消費するは甚だ見苦しくしておもしろからず。もっか幸いに軍備拡張の折柄につき、この78万ドルを持って下関海峡の左右に堅牢至極の砲台を築き、今より以後、我が大日本政府の禁制を犯し、ほしいままにこの海峡を通航船とするものあるにおいては、前年、毛利氏の不始末に倣わず、ただ一発のもとに木造軍艦にても鉄装軍艦にでもご遠慮なく破砕微塵にすべしと、かねて世界万国に広告しおくべし 。
この工事落成の上はその名をワイヨミン砲台と称し、さる文久三年、並びに翌元治元年この海峡にて砲戦の始末、及び折って300万ドルの償金強奪の顛末より、今回米国政府が元金返還の次第まで 明細に石塁の前面に彫刻し、子孫百世の紀念碑に代用すべし。
以上、小生の愚案に候。他年、一日、 下関海峡ワイヨミン砲台の前を鞠躬如として欧米軍艦の通行するを目撃せば、我々日本国人たるものはいささか多年の鬱憤を慰し申すべきか。
あえてこれを愛国の士に質す。頓首再拝

明治16年4月30日
時事新報編集長 机下

著者名は「相模太郎」 元寇を迎え撃った北条時宗の異名で、頼山陽「蒙古来」で「相模太郎 肝 甕の如し」とうたわれている。


ま、こんな皮肉のコラムを書いた福沢諭吉、一万円札の肖像であってもそうでなくても「ただものではない」と…この前と同じギャグを再現しました。

ちなみに、この前段階「生麦事件」をくわしくかいた「風雲児たち」が月末発売

風雲児たち 幕末編 32 (SPコミックス)

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昨日やった修斗大会のabemaTV配信

個人的に見る時間なかったので、明日以降見る



abema.tv


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堺屋太一追悼(2) 万博からインパクまで…堺屋氏自身は、自分の仕事をこう「自負」していた

両方、ひとまとめに書くとテーマがぼやけるので、ふたつに分けました。
(1)はこちら
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先日亡くなった「堺屋太一」は、官僚と作家の二足の草鞋から、作家に専念しつつも、その後も大阪を中心とした実際の政治経済に関わり続け、特に関西では絶大な影響力があったという。
(今なお大きな影響力を持つ橋下徹と、「維新」とも大きなかかわりをもつ)

(1)で紹介した自伝から、別の個所を引用したい。
特に、堺屋自身が、自分の功績、実績に対してどのような自負を持っていたか、を中心に。

メモ的な箇条書き。堺屋太一は、自分の歩みをどう「自負」しているのか?

・私(堺屋太一)は1962年版の通商白書を執筆した。ここで水平分業論を提唱した。この時作った水平分業型数は後に改良されて「グルーベル=ロイド指数」として世界の学界に定着している。
 
・当時の通産省は「講演や原稿執筆は1割を親睦費に拠出すれば許可する」との内規があり、自由にやらせてもらえた。そんな中で新聞や雑誌の記者と懇親する機会が増え 私が喋りまくった「巨人・大鵬・卵焼き」というフレーズが新聞や雑誌に流れて定着したのだった。
 
万国博覧会に関してはある上司から冗談まじりの一言で言われた後、衝撃を受けてやりたい気持ちが高まったが、一係長の言うことで国が動くはずはないとも思っていた。

・しかし石田三成のことを調べ始めて、たった19万石の小規模大名が、255万石を持つ徳川家康と天下分け目の戦いができるということに勇気づけられ、1から動くことを決意した。
(ちなみにこの史観をのちに小説とし「マネジメント時代劇」「関ヶ原前夜で終わる、戦争に重点を置かない時代劇」としての画期も自負しているようだ)

巨いなる企て (上) (文春文庫 (193‐5))

巨いなる企て (上) (文春文庫 (193‐5))

巨いなる企て (下) (文春文庫 (193‐6))

巨いなる企て (下) (文春文庫 (193‐6))


ここからが面白いので、特に注目してほしい。

・まず与論を作らねば…最初に目をつけたのは通産省の公用車運転手だった。
 
毎日謄写版釣りの資料を作って運転手室に届けて語った。
というのは上司や同僚にも同じ資料を配っているが、みんな忙しいから当然見てもくれない。
しかし公用車の運転手は待機時間が多いから面白がって話を聞いてくれる
それで1ヶ月もすれば「万国博の話に来る事務官」が通産省の評判になり始めた。
 
・最初のうちは乗り気になった人もいれば、反発する人も多かった。
「君は万国博の日本開催など言い回っているようだがよろしくない万国博開催運動をやるんなら辞表書いてからにしろ」
私は断固として答えた。
「辞表は書きません。 万国博覧会運動も止めません。不都合なら懲戒免職にしてください」
 
・しかしある参議院議員自由民主党政務調査会商工部会で「国際博覧会の日本開催」を提唱した。軽いジャブ程度の話だが大阪は鋭く反応した。「どうやら池口事務官の話は通産省の意向らしい」という話が広まったらしく、地元で会合が開かれた。

・そして4月に知事、大阪市長、商工会議所会頭の三者連盟による「国際博覧会開催要望書」が提出された。それを機に万国博開催は全国的な話題になり、各地から開催要望が出た。神戸・滋賀県・千葉県…

・すると通産省も動いた。企業局に国際博覧会担当の課長補佐と係長各1人を置いた。その係長が私だった 。

・そして佐藤栄作に会いに行くということになった。

・他国を出し抜いて開催要望を出さなければいけないということで1965年4月、「主催組織未定、会場未定、用地面積未定、会期日程未定、資金計画未定…」で提出した。


ひとことでいえば「権力のピタゴラスイッチ」というか(笑)いい命名したな俺。

まぁ確かに一係長の提案としては、日本の空前の大規模事業と言ってもいいだろう。日本史の歴史年表にどれをみても載ってるできごとだしね。

この当時の「若くても国を動せる」実感が、 その後もこの道を志す人に、官僚神話としても受け継がれていったと思われる。一方で堺屋太一は、まだその地位で、おそらく空前のことをしたので、官界に未練がなくなったのじゃなかろうか。


…でも結局その後の堺屋太一氏は、官僚としても、また完全に退職後の作家としても、ずっと「イベント屋バカ一代」として歩み続ける。官僚としては、沖繩海洋万博も開催。
これもまあ自己申告ではあるけど「沖縄の未来は観光にしかない」と観光政策を推進したのも彼で、当時は観光など人が食べていける産業ではない、と懐疑的な見方がほとんど。ちなみにプロ野球の沖縄キャンプを誘致したのもサカイヤだと自己申告している。今現在の状況から見れば「またも堺屋太一は正しかった」ということになるが、周りからは異論もあろう。


中国の副首相に「万博を開きましょう」と提案したのも堺屋氏で、 1984年に「万国博開催の手続きと効果」という資料を3日でまとめて1時間近くレクチャーしたと言う。その翌日に「上海の市長に会って欲しい」と言われてそこでも論じ、翌年からは同市の「万博研究会」に毎年招かれたというから、かなり事実に近いのだろう。2010年に本当に上海万博が開かれた時(途中の天安門事件で、大分タイムスケジュールが狂ったそうだ)、中国の新聞でも「最初の提案者」として堺屋太一が紹介されている。



・その後「平成30年」という小説を書いた時のことも回想している。たしか、けっこう苦笑交じりにまじの平成30年に紹介された気がするが(笑)地方の過疎化、 IT 産業 などを予測したと自負しているらしい。
togetter.com



そしてインパク。これもこんなまとめがあったが…
togetter.com
堺屋太一氏本人がこう思っている、という話を、以下は資料として正確に引用しよう。

森内閣で IT 担当大臣を兼務した私は教育現場へのインターネットの投入や地域社会でのパソコン普及を促した。文部省は「教員全部に IT を教えるのには何年もかかる」と言う。農林水産省も「地域社会でパソコン教室を開いても無駄」と消極的だった。何よりも通信回線を独占する NTT が既存施設の償却にこだわり、回線の民間企業への開放に反対だ。
 
たまりかねた私は電気通信事業法の改正に着手した。これは内閣審議官古田肇氏や平井正夫氏の支援で成功した。 郵政省 NTT では「四年間でブロードバンド(IT通信回線)は4倍、通信料金の引き下げ率は17%がせいぜい」としていたが、法改正で通信回線が他社にも解放されると爆発的に増え、通信料金も4年後には余分の位置になり日本は世界有数の「通信料金の安い国」になった。
 

ITの普及に役立ったのはインターネット博覧会だ。インターネット上に博覧会場を設け、各企業や民間融資の出店(ホームページ)を見て回る(アクセスする)仕組みである。当初はこれが容易に理解されなかったが「入場ゲート」の編集長に糸井重里氏や浜野保樹氏を並べたことで人気が出た。最終的には507の出展を得て、5億3000万回のアクセスを得た。 IT幕開けの頃としては大きな数である。


…そうだったかなあ?インパクのコンテンツなんか見に行ったことないぞ?と個人的実感では当然思うんだけど、ただ、自分は当時すでにネットの「ヘビーユーザー」に定義される状態だった、というのも間違いなかろう。親兄弟や職場も含めて「ネットなんて見る習慣は全然ない」「知らない」「無くても何にもこまらない」という人、いくらでもいたからね。グーグルで検索すればすぐわかる情報や調査結果を、もったいぶって教えればそれだけで重宝がられたり仕事になったりしたもんだった(いや、もったいぶらずに「グーグルで調べれれば誰でもわかります」とちゃんと教えてもやらなかった。俺だけグーグルっ子で、ほかのパソコンユーザー、ヤフーばっかだし!!)

これは森喜朗内閣の「IT(イット)革命」自体をどう評価するか、にもつながるのだろうけど、あの当時…ミレニアムの時代、ヘビーユーザーでも最底辺でもない、ほんとうに普通の日本社会が、「総体として」ネット社会になるための後押しにどの程度なったのか……これは、いろんな検証結果があるだろうから、ちょっと後日探してみたい(情報を求む)


とりあえず、この前亡くなった堺屋太一さんは、「万博」「巨人大鵬卵焼き」から「沖縄の観光開発」「インパク」「ブロードバンドを安くした」まで、とにかく自分自身で功績を以上のように自負していた、ということだけ皆様に紹介。

そして、あらためて安らかなれ。

堺屋太一追悼(1)…彼は「シミュレーション小説」の元祖なのだろうか?

先ごろ亡くなった堺屋太一さん。、自分はあの人の著書を数冊程度しか読んでいない。
「現代を見る歴史」というのは、タイトル通りに現代社会(と言っても当時、80年代の世相)と歴史をなぞらえた内容のもので、良くも悪くも「通俗的」だったけれど、宋の歴史や文化重視の思想、アテネとスパルタの対立など、それなりに役に立つ知識を得ることができた(当時はまだ世界史も学校で勉強していなかったから、全部の知識が新鮮で当たり前なんだが)。

現代を見る歴史 (新潮文庫)

現代を見る歴史 (新潮文庫)

ただそれより何より、自分の堺屋太一へのイメージは「 SF 小説としての『油断!』を執筆したという人」となっている。
これは豊田有恒がその作品を、そのように評したからであるんだが……そこから遡って、もうとっくに古い時代の古い本、であった「油断!」を古本屋で購入して読んでみて、まっ、これもそういう本を読んだことがなかったから、ということではあるんだけど 、やっぱり凄く面白かったんだな。

油断!/団塊の世代 (堺屋太一著作集 第1巻)

油断!/団塊の世代 (堺屋太一著作集 第1巻)

今思い返せば、当時は小学校の学習雑誌みたいなものでも「日本は資源のない国です。輸入が途絶えたら大変なことになります。石油の備蓄や食料自給は特に大切ですね!」みたいな読み物は山ほどあった。あれは70年代の破滅論ブームが読み物の「型」を作りそれを繰り返していたという理由もあったんじゃないかと思う。
だからその後、そういうジャンルの元祖としての「油断!」も違和感なく読めたんだろう。

ただ問題はあれが本当に「元祖」かということなんだが……どうなんだろうね、小説で「現実にあるかもしれない情勢の『シミュレーション』を、データを交えて描く作品」というのの歴史は。
これはけっこう定義が難しくて…というのは「日本沈没」だって、それをもっともらしくするためのデータというのは山ほど用意して配置している。
日本沈没の刊行が1973年、油断!が1975年なので、出版しましょうという話になったタイミング、動機も含めて大きな影響があると思う。ただ「日本沈没」は怪獣出現や宇宙人の侵略と同程度に『壮大な SF』 であり、油断!は実際におけるシチュエーションを描いた、『リアル寄りのポリティカルサスペンス』であるという区分もできるよね。後者としてはジャンルの元祖なんだろうか…水野重徳の「次の一戦」にまでさかのぼるなよ(笑)

そんな興味を持ちながら、追悼の意味を込めて堺屋太一の自伝を読んでみた。

ここに予測小説「油断!」執筆への道のり

という小見出しの箇所がある。 全部写すのは面倒なので要約しよう。

・1969年、私は鉱山石炭局に配置換えとなった。
 
・当時は石油のない日本は有利、と考えられていた。当時石油は非常に安く、なまじ国内に資源がある国はその産業を保護するために輸入を制限せざるを得ないが日本はフリーハンドでどこからでも安い物を買えるから。
 
・しかしある外国の石油情報誌の記事を読んだら「石油の新資源発見量が年間の消費を下回ってきた」とある。そしてホルムズ海峡を通る船に積まれた石油が日本輸入の8割を占めていることにも気付いた。
 
・私は官僚として 「石油備蓄用タンクの建設には特別償却制度を認める」という制度を打ち出したが公害防止論者、主婦団体から、事故の時の環境破壊が強いという反対運動があり、騒動になった。
 
・何をのんきなと思った私は、同じ心配をしている人達と集まって、石油輸入が止まった時の危険を勉強し始めた。石油化学の専門家や農林省の技官、大阪市の職員など…
 
・そしてある女性の大学研究員が「みんなの意見をまとめて産業連関表を作り、マルコフ過程逆行列式を解けば正確な予測ができます。大型コンピューターがあればやれます」

・日本万博協会の秘書役に頼んで関西電力の大型コンピューターを借りて、このシミュレーションを行った。
 
・1971年、この結果を知らされた。当時の計算では「ホルムズ海峡が1年間封鎖されれば、国富の7割が失われ約300万人が死亡する」との結論に至った。
 
・「それでこれどうする」
「あんたに任せるよ。小説にすればいいんじゃないか、予測調査では刺激が強すぎる」
「誰が書くんだ」
「あんたが」
 
・こんなやり取りで、調査に関する著作権を全て譲り渡されて 、官僚としての自分は沖縄振興や海洋博覧会の仕事の傍ら、小説の執筆を開始した 。石油の価格は勉強し始めた頃の2倍以上になっていた。
 
・最初に小説を書いて送ったところ出版社から「興味深いテーマですが、男女の濡れ場の描写を色濃く加えていただきたい。あるいは殺人事件をからますのもいい」との返事が来た(爆笑)。
 
・しかし本当に石油ショックが1973年に発生した ら、手のひらを返して出版が決定。 しかし直後はあまりにも時期が悪いとして私は反対し 、出版は見送った。
 
それを出すことにしたのは1975年、石油ショックが去った直後に「石油危機は石油価を釣り上げるための国際石油資本メジャーの陰謀だった」という説が流れたことだった。
 
日経新聞も小説分野に乗り出しこの本を出版したいと申し込みがあったので、ついに出版に踏み切った 。最初堺屋太一覆面作家として世に出た。
 
・初版1万部だったがすぐに評判を呼び2年間で百万部に迫る勢いで売れた。
 
・これが評判になり、第2作を執筆した。それが今も使われている言葉が生まれた「団塊の世代」。
 
・これによって作家にして評論家の「堺屋太一」の、のちのポジションに至る。



どうでしょう、戦後日本の出版界で、(少なくとも表面的には)リアルに起きそうな社会現象を小説の形で描いた「シミュレーション小説」「未来予測小説」は、堺屋太一「油断!」を以て嚆矢とする、という史観でよろしかろうか?

ひょっとして…と思った小林久三「皇帝のいない八月」は、1978年の作品だった。

皇帝のいない八月

皇帝のいない八月

皇帝のいない八月 (講談社文庫)

皇帝のいない八月 (講談社文庫)

23時から「Dropkick」ニコ生配信

ch.nicovideo.jp

5月4日は「スターウォーズの日」らしい。一寸おもしろエピソード


まあ、したいからしたんだろうな。

そしてついでに、前にも紹介したけど、この作品を再度紹介。

「創作世界」はだれのもの?という、僕の長年の問題意識へのひとつの回答例だった。


ピープルvsジョージ・ルーカス(字幕版)

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この作品って、abemaTVで配信されたことがあり、それで見たことがある。再度やらないかな。

「芸能人の政権批判」に関する世論調査結果/そして「政治や宗教ネタは避けよ」と素人落語家が助言受ける…立川談四楼師匠から!(毎日新聞)

小ネタ。

折もおり、朝日新聞でこんなアンケートを実施していた







「政治・宗教ネタ(の落語)は避けるのが無難です」

毎日新聞には「人生相談」のコーナーがあり、そこで2019年5月3日付で、趣味で落語をやっている男性が「つい下ネタに走ってしまう」と、若い時分の久米田康治先生みたいな悩みを相談していた、のだが…

そこに本職の落語家がアドバイスしているのだけど、基本的には、「迷わず行けよ、いけばわかるさ」みたいに背中を押すもので、その中で、

「実は下ネタは安全。政治や宗教のネタは。必ず異なる政党や宗教を支持する人がいて、できれば避けたほうがいいのです」という実践的な忠告をしているのです。

「ふーーーーん、そういう考えの落語家さんもやっぱりいるんだねぇ」と思って、改めて回答者名を見たら…

立川談四楼師匠でしたよ!!!三度見したよ。

f:id:gryphon:20190504020136j:plain
立川談四楼師匠が「政治ネタは避けよう」とアドバイス(2019年5月3日・毎日新聞
やっぱり当人だった
f:id:gryphon:20190504021713j:plain
立川談四楼師匠が「政治ネタは避けよう」とアドバイス(2019年5月3日・毎日新聞


ああ、会員制だが一応ネット経由でも読めるね。
mainichi.jp


なぜに三度見したか。理由はこちら参照。
twitter.com





…ただし、驚くにはあたらない、かもしれない。例えばふたつほど説明は考え付く。


A:これはあくまでも「ヨカタ、しろうとの落語天狗連の場合は、という説教で、私のような立川流の真打ともなれば、おのずとその『危険』なネタをフグのようにおいしく調理できる」ということなのかもしれない。


ただ、そういう注釈は無い。
これをもし一般的に、プロでもアマでも当てはまる普遍的な法則として語っているなら…、

B:「だから自分は政治的な発言は、落語とは関係ないtwitterでのみやっている。落語、本職では政治について語ったりしない、そういうふうに分離している」…というふうにつなげているのかもしれない。


憲法落語、とかもやってるようだけど

あるいは
C:そうは思っているんだけど、「親子酒」のあれと同じで、やめようやめようと思いつつついつい政治的発言をしちゃう



かもしれない。
ま、どれがどうかはわからん(Aなのかなぁ)が、個人的に驚いたので記憶と記録にとどめておくなりよ。