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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

堺屋太一追悼(2) 万博からインパクまで…堺屋氏自身は、自分の仕事をこう「自負」していた

両方、ひとまとめに書くとテーマがぼやけるので、ふたつに分けました。
(1)はこちら
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先日亡くなった「堺屋太一」は、官僚と作家の二足の草鞋から、作家に専念しつつも、その後も大阪を中心とした実際の政治経済に関わり続け、特に関西では絶大な影響力があったという。
(今なお大きな影響力を持つ橋下徹と、「維新」とも大きなかかわりをもつ)

(1)で紹介した自伝から、別の個所を引用したい。
特に、堺屋自身が、自分の功績、実績に対してどのような自負を持っていたか、を中心に。

メモ的な箇条書き。堺屋太一は、自分の歩みをどう「自負」しているのか?

・私(堺屋太一)は1962年版の通商白書を執筆した。ここで水平分業論を提唱した。この時作った水平分業型数は後に改良されて「グルーベル=ロイド指数」として世界の学界に定着している。
 
・当時の通産省は「講演や原稿執筆は1割を親睦費に拠出すれば許可する」との内規があり、自由にやらせてもらえた。そんな中で新聞や雑誌の記者と懇親する機会が増え 私が喋りまくった「巨人・大鵬・卵焼き」というフレーズが新聞や雑誌に流れて定着したのだった。
 
万国博覧会に関してはある上司から冗談まじりの一言で言われた後、衝撃を受けてやりたい気持ちが高まったが、一係長の言うことで国が動くはずはないとも思っていた。

・しかし石田三成のことを調べ始めて、たった19万石の小規模大名が、255万石を持つ徳川家康と天下分け目の戦いができるということに勇気づけられ、1から動くことを決意した。
(ちなみにこの史観をのちに小説とし「マネジメント時代劇」「関ヶ原前夜で終わる、戦争に重点を置かない時代劇」としての画期も自負しているようだ)

巨いなる企て (上) (文春文庫 (193‐5))

巨いなる企て (上) (文春文庫 (193‐5))

巨いなる企て (下) (文春文庫 (193‐6))

巨いなる企て (下) (文春文庫 (193‐6))


ここからが面白いので、特に注目してほしい。

・まず与論を作らねば…最初に目をつけたのは通産省の公用車運転手だった。
 
毎日謄写版釣りの資料を作って運転手室に届けて語った。
というのは上司や同僚にも同じ資料を配っているが、みんな忙しいから当然見てもくれない。
しかし公用車の運転手は待機時間が多いから面白がって話を聞いてくれる
それで1ヶ月もすれば「万国博の話に来る事務官」が通産省の評判になり始めた。
 
・最初のうちは乗り気になった人もいれば、反発する人も多かった。
「君は万国博の日本開催など言い回っているようだがよろしくない万国博開催運動をやるんなら辞表書いてからにしろ」
私は断固として答えた。
「辞表は書きません。 万国博覧会運動も止めません。不都合なら懲戒免職にしてください」
 
・しかしある参議院議員自由民主党政務調査会商工部会で「国際博覧会の日本開催」を提唱した。軽いジャブ程度の話だが大阪は鋭く反応した。「どうやら池口事務官の話は通産省の意向らしい」という話が広まったらしく、地元で会合が開かれた。

・そして4月に知事、大阪市長、商工会議所会頭の三者連盟による「国際博覧会開催要望書」が提出された。それを機に万国博開催は全国的な話題になり、各地から開催要望が出た。神戸・滋賀県・千葉県…

・すると通産省も動いた。企業局に国際博覧会担当の課長補佐と係長各1人を置いた。その係長が私だった 。

・そして佐藤栄作に会いに行くということになった。

・他国を出し抜いて開催要望を出さなければいけないということで1965年4月、「主催組織未定、会場未定、用地面積未定、会期日程未定、資金計画未定…」で提出した。


ひとことでいえば「権力のピタゴラスイッチ」というか(笑)いい命名したな俺。

まぁ確かに一係長の提案としては、日本の空前の大規模事業と言ってもいいだろう。日本史の歴史年表にどれをみても載ってるできごとだしね。

この当時の「若くても国を動せる」実感が、 その後もこの道を志す人に、官僚神話としても受け継がれていったと思われる。一方で堺屋太一は、まだその地位で、おそらく空前のことをしたので、官界に未練がなくなったのじゃなかろうか。


…でも結局その後の堺屋太一氏は、官僚としても、また完全に退職後の作家としても、ずっと「イベント屋バカ一代」として歩み続ける。官僚としては、沖繩海洋万博も開催。
これもまあ自己申告ではあるけど「沖縄の未来は観光にしかない」と観光政策を推進したのも彼で、当時は観光など人が食べていける産業ではない、と懐疑的な見方がほとんど。ちなみにプロ野球の沖縄キャンプを誘致したのもサカイヤだと自己申告している。今現在の状況から見れば「またも堺屋太一は正しかった」ということになるが、周りからは異論もあろう。


中国の副首相に「万博を開きましょう」と提案したのも堺屋氏で、 1984年に「万国博開催の手続きと効果」という資料を3日でまとめて1時間近くレクチャーしたと言う。その翌日に「上海の市長に会って欲しい」と言われてそこでも論じ、翌年からは同市の「万博研究会」に毎年招かれたというから、かなり事実に近いのだろう。2010年に本当に上海万博が開かれた時(途中の天安門事件で、大分タイムスケジュールが狂ったそうだ)、中国の新聞でも「最初の提案者」として堺屋太一が紹介されている。



・その後「平成30年」という小説を書いた時のことも回想している。たしか、けっこう苦笑交じりにまじの平成30年に紹介された気がするが(笑)地方の過疎化、 IT 産業 などを予測したと自負しているらしい。
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そしてインパク。これもこんなまとめがあったが…
togetter.com
堺屋太一氏本人がこう思っている、という話を、以下は資料として正確に引用しよう。

森内閣で IT 担当大臣を兼務した私は教育現場へのインターネットの投入や地域社会でのパソコン普及を促した。文部省は「教員全部に IT を教えるのには何年もかかる」と言う。農林水産省も「地域社会でパソコン教室を開いても無駄」と消極的だった。何よりも通信回線を独占する NTT が既存施設の償却にこだわり、回線の民間企業への開放に反対だ。
 
たまりかねた私は電気通信事業法の改正に着手した。これは内閣審議官古田肇氏や平井正夫氏の支援で成功した。 郵政省 NTT では「四年間でブロードバンド(IT通信回線)は4倍、通信料金の引き下げ率は17%がせいぜい」としていたが、法改正で通信回線が他社にも解放されると爆発的に増え、通信料金も4年後には余分の位置になり日本は世界有数の「通信料金の安い国」になった。
 

ITの普及に役立ったのはインターネット博覧会だ。インターネット上に博覧会場を設け、各企業や民間融資の出店(ホームページ)を見て回る(アクセスする)仕組みである。当初はこれが容易に理解されなかったが「入場ゲート」の編集長に糸井重里氏や浜野保樹氏を並べたことで人気が出た。最終的には507の出展を得て、5億3000万回のアクセスを得た。 IT幕開けの頃としては大きな数である。


…そうだったかなあ?インパクのコンテンツなんか見に行ったことないぞ?と個人的実感では当然思うんだけど、ただ、自分は当時すでにネットの「ヘビーユーザー」に定義される状態だった、というのも間違いなかろう。親兄弟や職場も含めて「ネットなんて見る習慣は全然ない」「知らない」「無くても何にもこまらない」という人、いくらでもいたからね。グーグルで検索すればすぐわかる情報や調査結果を、もったいぶって教えればそれだけで重宝がられたり仕事になったりしたもんだった(いや、もったいぶらずに「グーグルで調べれれば誰でもわかります」とちゃんと教えてもやらなかった。俺だけグーグルっ子で、ほかのパソコンユーザー、ヤフーばっかだし!!)

これは森喜朗内閣の「IT(イット)革命」自体をどう評価するか、にもつながるのだろうけど、あの当時…ミレニアムの時代、ヘビーユーザーでも最底辺でもない、ほんとうに普通の日本社会が、「総体として」ネット社会になるための後押しにどの程度なったのか……これは、いろんな検証結果があるだろうから、ちょっと後日探してみたい(情報を求む)


とりあえず、この前亡くなった堺屋太一さんは、「万博」「巨人大鵬卵焼き」から「沖縄の観光開発」「インパク」「ブロードバンドを安くした」まで、とにかく自分自身で功績を以上のように自負していた、ということだけ皆様に紹介。

そして、あらためて安らかなれ。