日本で行われている黙禱の起源は第一次大戦後のイギリス領南アフリカにある。これがイギリスから輸入され、関東大震災の一周忌(1924年)に、特定の「宗教」を明示しない弔意儀礼が行われたのを契機に黙禱は定着していき、それ以前から行われていた遙拝とも融合していくという(粟津賢太氏の研究に拠る)。
— DJ プラパンチャ (@prapanca_snares) March 11, 2026
DJ プラパンチャ
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3月11日
この黙禱は、関東大震災後に日本に導入された。震災の翌年の1924年9月1日に、皇太子(のちの昭和天皇)が東宮御所(今の赤坂御苑)で、皇室儀礼としてイギリス式で2分間の黙禱を行った。かくして、特定の「宗教」を明示しない弔意儀礼が日本で初めて行われた。これが今日的な形の黙祷の起源である。
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3月11日
そして同日午前9時から、東京で主催罹災死亡者追悼式が行われた。加藤高明首相をはじめとする各大臣が出席し、まず東京府知事や東京市長が弔辞を読み上げるだけの「無宗教」式を行い、10時から神式一年祭を行い、11時58分に工場のサイレンや寺院や神社の鐘や太鼓の音とともに「市民黙禱」を行い、
午後1時から仏教各派合同による仏式法要を行った。つまり、「無宗教」式・神式・仏式を分けて、その間に「市民黙禱」を挟んだ形になる。これは、仏式でも神式でもない形で追悼・弔意の意を示す新しい儀礼だった。
ところで、こうした国民的かつ集団的な儀礼は、日本に先例が全くないわけではなかった。日本でも遙拝といって、「遥」かに離れた場所から神宮や神社を「拝」することはそれ以前から行われていた(明治天皇の大喪の際にも行われている)。その後、黙禱と遙拝は融合しながら定着していくことになる。
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3月11日
さて、興味深いことに、黙禱は昭和戦前期には批判の対象となったこともある。1941年1月1日付の朝日新聞は、神祇院が「西洋思想の流れを汲む黙禱を排し日本古来の最敬礼を二拝二拍手一拝の礼式を国礼として制定する意向を持つてゐる」と報じている。
同記事は、黙禱が比較的新しい儀礼であることも示唆している(関東大震災後に黙禱がキリスト教の形式で行われたことや、それが徐々に日本に広まっていったことにも触れている)。しかし、こういう話はあったものの、黙禱はすでに全国に浸透しており、戦時体制下でもそれを覆すことはもはやできなかった。
一方、戦後の占領期には、来日していたプロテスタントの宣教師が「黙禱は正教分離に反する」と主張したこともある。1951年6月に行われた貞明皇后(大正天皇の后)の大喪儀では、閣議決定で「哀悼の意を表す」黙禱が公務員に要請され、各学校でも黙禱が行われた。これが宣教師の非難を招いたのである。
「宗教」というのは近代に創出された問題含みの新しい概念だが、この一件でも、「宗教/非宗教」という近代的な“分別”の“揺らぎ”や“裂け目”が露呈しているかのようだ。ともあれ、昭和戦前期には黙禱が西洋やキリスト教を起源とすることが批判され、戦後は黙禱の持つ「宗教性」が批判されたことになる。
「政教分離」を前提とした近代国家にも、戦争や災害などによる国民の大量死に向きあわねばならない場面は必ずある。そうした場面で、黙禱という近代の産物は、特定の「宗教」に偏らない(ように見える)点で便利であり、「宗教」的な儀礼の不在を補完し、国民を統合するかのようである。
DJ プラパンチャ
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パク、もとい参考にした文献は以下のとおりです。もっと詳しく知りたい方はどうぞ。
粟津賢太『記憶と追悼の宗教社会学』北海道大学出版会、2017年
粟津賢太「なぜ私たちは黙禱するのか? 近代日本における黙禱儀礼の成立と変容」『シリーズ戦争と社会5 変容する記憶と追悼』岩波書店、2022年
【追記・訂正】
①このポストの11月というのは、1919年11月です。1つ前のポストから、文脈的に1918年のことだと誤解されかねないので追記いたします。
②6つめのポストの「主催罹災死亡者追悼式」は、正しくは「府市主催罹災死亡者追悼式」です。
失礼いたしました。

