これは2023年11月22日付の読売新聞「編集手帳」から。映画「ナポレオン」公開に合わせたネタだったね。
以下、他の情報も羅列。
・ドナルド・キーンという名前が出てくるということは、ほぼ間違いなくキーン自身がどこかで書いたか、しゃべっているのだろう。その資料は見つからず。
・ただ、それが一種の、家庭内での伝承でない限りは、どこかに記録がある筈である…というか、上の新聞コラムは構成上の都合かスペースの関係で固有名詞を示してないだけで、おそらくその名前は残ってるはずだ!
・と思って調べたら「バジル・ホール」という人らしい。「キーンの友人の先祖がバジル・ホール」というより「バジル・ホールの子孫のひとりがキーンの友人」なのだ。(※おそらく、東京帝国大学文学部名誉教師を務めたバジル・ホール・チェンバレンであろう)
鵺さん
2012/3/18 21:28
ナポレオンは「琉球王国には軍隊はなかった」という使節からの
報告を受けて、そんな国が本当に存在するにかと首をひねった
というのは 本当ですか。世界史・2,832閲覧
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ベストアンサー デッカさん
2012/3/18 23:14
19世紀の初め、イギリス海軍のバジル・ホール大佐という人が琉球に来てました。
目的は調査や測量であり、その時に現地の琉球人との交流エピソードなどをまとめた本(バジルホール大琉球島航海探検記)がヨーロッパでベストセラーになっていました。
その内容は「琉球の人々はいちじるしく文明化している。人々は無欲で、完全に満足しているように見える」
そのため琉球にはヨーロッパ各国から布教のため使節がたびたび来るようになりました。
ペリーが浦賀へ来る途中、琉球を訪問したのも実はこの本の影響ではないかと思います。
そしてその本にはさらに「われわれは武器を一切見なかった。島の人々は、つねに武器などないときっぱり言っていた。銃を発射するのは見た時の彼らの様子では、確かに彼らは火器について無知であると思われる。彼らは、戦争をやったこともないし、昔話にも聞いたことがないと言っている。」と綴られていました。
そしてその後、バジル・ホールはナポレオンがいるセントヘレナ島に面会に行き、琉球の実情を話したそうです。
そのときナポレオンは「武器もないうえに戦争も知らない国」と言うのを聞いてひじょうに驚いたらしいです。
ja.wikipedia.org
1826年の第3版『琉球その他の東海航海記』にはナポレオンとの会見録が追加収録され、自分が朝鮮という国を探査してフランスに帰る途中だと述べ、長いキセルと大きな笠(カッ)を見せながら、朝鮮の風物を紹介した。朝鮮の住民は平和を愛する民族で、他国への侵略戦争をしたことがないこと、また琉球の住民は通貨の使用を知らず、物を与えても代償をとらないこと、僧侶の地位が低いことなどをナポレオンに報告したという[12][13]。それに対してナポレオンは再びフランスを統一した暁には、必ず朝鮮を訪れてみようと返答した[14]。ナポレオンに同行していたアンリ・ベルトランによると、ホールが「閣下、琉球の人はナポレオンのナの字も知りません」と言ったとき、ナポレオンはここ何か月もの間聞いたことのない大きな声で笑ったという[15]。ホールは武器を見かけなかったことを理由に琉球が非武装であると結論付け、結果19世紀の欧米に「琉球=非武装王国」の噂が広まった[16]。こうした楽園的なホールの琉球観は日本や中国との通商を求める欧米列強にとって好都合で利用価値のある交易基地としてのイメージを確固たるものにし、琉球王府が苦慮していた来琉外国船をますます増やす結果を招いた[9]。
で、現実はというと。
okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com
尚真王は武器も廃棄していないし、“非武装国家宣言”も出していません。刀狩りの根拠とされた「百浦添欄干之銘」(1509年)という史料にはこう書かれています。
「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす。この邦の財用・武器は他州の及ばざるところなり」
刀狩り説は、これを「武器をかき集めて倉庫に積み封印した」と解釈していました。しかしこの文を現代風に訳すると、何と「(尚真王は)刀や弓矢を集めて国を守る武器とした。琉球の持つ財産や武器は他国の及ぶところではない(他国より金と軍備を持っている)」という意味になるのです。尚真王は武器を捨てるどころか、軍備を強化しているのです。
実際に1500年の王府軍による八重山征服戦争では軍艦100隻と3000人の兵が動員され、1609年の薩摩島津軍の侵攻に対しては、琉球は4000人の軍隊で迎え撃ち、最新兵器の大砲でいったんは島津軍を阻止しています。
尚真王が軍備を廃止した事実はなく、この時期にそれまでの按司のよせ集めだった軍団から、王府指揮下の統一的な「琉球王国軍」が完成したというのが真実なのです。再度強調しますと、琉球は刀狩りやそれに関連するような政策は一切とっていません。
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ナポレオンが聞いた話は、琉球を訪れた欧米人バジル・ホールの体験談であって、彼は琉球社会のほんの一部分を見て判断していたにすぎません。ホールはさらに「琉球には貨幣もない」とまで言い切っています(もちろんそんなことはありません)。琉球の「武器のない国」というイメージはどのように作られ、広がっていったのでしょうか。それは琉球を訪れた欧米人の体験談が、19世紀アメリカの平和主義運動のなかで利用されていった経緯があります。好戦的なアメリカ社会に対し、平和郷のモデルとして自称琉球人のリリアン・チンなる架空の人物が批判するという書簡がアメリカ平和団体によって出版され、「琉球=平和郷」というイメージが作られました。このアメリカ平和主義運動で生まれた琉球平和イメージ、史料の解釈の読み違いから出た非武装説に加え、さらに戦後の日本で流行した「非武装中立論」や「絶対平和主義」が強く影響して、今日の「武器のない国琉球」のイメージが形作られていったのです。
うーん 「編集手帳」があいまいな書きかたをしたことで調べる気になったが、どうも平凡な着地をしてしまった。
まあ、記録にはなるでしょう