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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「2007年の落合博満」。日本シリーズで前代未聞の「完全試合」達成目前で…(「嫌われた監督」)

なぜ 語らないのか。
なぜ 俯いて歩くのか。
なぜ いつも独りなのか。
そしてなぜ 嫌われるのか――。

中日ドラゴンズで監督を務めた8年間、ペナントレースですべてAクラスに入り、日本シリーズには5度進出、2007年には日本一にも輝いた。
それでもなぜ、落合博満はフロントや野球ファン、マスコミから厳しい目線を浴び続けたのか。秘密主義的な取材ルールを設け、
マスコミには黙して語らず、そして日本シリーズ完全試合達成目前の投手を替える非情な采配……。
そこに込められた深謀遠慮に影響を受け、真のプロフェッショナルへと変貌を遂げていった12人の男たちの証言から、
異端の名将の実像に迫る。

週刊文春」連載時より大反響の
傑作ノンフィクション、遂に書籍化!


第5章より。2007年日本シリーズ第五戦。落合監督率いる中日ドラゴンズは1敗のあと3勝して、日本一に王手をかけていた。


…(※中継ぎ投手の)岡本真也はグラブを外すと、ブルペンの隅にあるベンチに腰を下ろした。その行動はリリーフ投手にとっての開店休業を意味していた。
この試合にリリーフはいらない。
そう確信していたからだ。
ナゴヤドーム一塁側のブルペンはベンチ裏をさらに奥へと進んだ、スタンドから見えない場所にある。天井には整然と照明が並び、三つずつあるマウンドとホームベースを照らしている。
この日、リリーフたちの密室はイニングを追うごとに奇妙な静けさに包まれていった。試合は1一0のリードを守ったまま、七回を終えようとしていた。先発ピッチャーの山井は、いまだひとりのランナーも出していなかった。
岡本はベンチに腰かけたまま、壁のモニターを見上げた。画面の中に山井がいた。ゴーグルがトレードマークの右腕には打たれる気配がなかった。このイニングも、一番バッタから始まった日本ハム打線を圧倒していた。ゲームも終盤に入って、さすがに打球を外野に飛ばされるようになってはいたが、どれも力のない飛球だった。
それを見て、岡本は心のスイッチをオフにした。他のリリーフ投手たちも同じように投球練習をやめて、ベンチに腰かけていた。


(略、ちょっと指の血豆がつぶれた山井だが、全然大丈夫らしい、という。)


七回を迎えた時点で、投球練習をしているのはストッパーの岩瀬仁紀だけだった。岩瀬はいつも通り、十六球を投げて、二段階あるうちの最初の準備を終えた。着替えのためだろう。ストッパーは汗を拭いながらブルペンを出ていった。
万が一の、念のための準備だろう。
岡本は、岩瀬を横目で確認した。そして、すぐにまたモニターの山井へと視線を戻した。山井が一つアウトを重ねるたびに、思わず「よし!」と声が出た。
まだ一人の走者も出していない......。あいつ、完全試合をやるんじゃないか............。
とてつもないことが起こりそうな予感がしていた。今や自分にできることは祈ることだけであった。気づけば、手の平に汗がにじんでいた。


(略、山井は好青年であり、中継ぎ陣も心から完全試合を願い、気持ちが昂る)


…山井の躍動は止まらなかった。ゆったりしたノーワインドアップから放たれるストレートは、ずしりとバットを押し込み、鋭利なスライダーは鮮やかにスイング軌道を避けた。岡本はそれを見て、確信した。
あいつは今日、球史に名前を刻むんだ......。
ブルペンの扉が開いたのは、そのときだった。がちゃりという音が静かな密室に響いた。新しいアンダーシャツに着替えた岩瀬が入ってきたのだ。これから二度目の投球練習に入るようだった。
中日のストッパーは三年連続で四十を超えるセーブを記録していた。岩瀬を知らぬ者は、この世界にはいない。ユニホームの背番号13は相手チームにとっての不吉の象徴となっていた。
「岩瀬が出てきたら、もう終わり。逆転のドラマは起こらない」
他球団のファンや、関係者からもそういう声が聞こえてきた。事実、岩瀬の決め球であるスライダーは「死神の鎌」と呼ばれていた。

日本シリーズ完全試合達成目前での投手交代(嫌われた監督)

その絶対的な守護神が、最後の準備に入った。それが岩瀬のルーティンであり、決められた通りの、いつもの流れだった。
ただ、見慣れたはずの光景がなぜかこの日は妙に気になった。
モニターの山井と目の前の岩瀬、二人を交互に見た岡本の脳裏に、あることが浮かんだ。代えるのか?まさか......。
それは普通ならば浮かぶことのない疑念であった。
何しろ先発ピッチャーが完全試合を継続しているのだ。その最中に、リリーフ投手が必要であるはずがない。
だが、もしかして......。
岡本にそう思わせたのは、すでに五百試合以上も修羅場のマウンドに立ちながら、防御率1点台。九イニングに一点しか失わないことを意味しているーを保っている岩瀬への絶対的な信頼感と、何より落合という指揮官の存在だった。
あの人なら...代えるかもしれない……。
岡本はかつて、監督としての落合がはっきりとゲームにおける感情を捨て去った瞬間を目の当たりにしていた。いや、感情を捨てさせた当事者であると言ってもよかった。


(略、三年前の2004年日本シリーズで、まさに好投していた岡本を一度は交代させようとした落合が、周囲の懇願や岡本のシーズンの功績を考え続投…その結果逆転を喫し優勝を逃した、という回想。そして視点は、投手コーチの森に)




そもそも完全試合にリリーフが必要なのか?
あまりにも当たり前で、今まで浮かんだことすらない問いだった。
森はよく投手陣にこんな話をした。
「俺はお前らの口から限界なんて聞きたくない。投手は、ひとりで投げ切るに越したことはないんだ。継投すればするほど、チームにとってはリスクが高くなるんだ」
森は才能のあるピッチャーが能力を出し切らずに降板することが何よりも嫌いだった。それは自身が現役時代に、怪我によってユニホームを脱いだことが影響していたのかもしれない。


(略、森の怪我と血のにじむリハビリの話)


だから森は、投手たちがマウンドに立つことのできる「今」を無駄にすることが許せなかった。まだ投げられるのに、自らの心の弱さからマウンドを降りてしまうことが我慢ならなかった。
森は、山井を見て思った。
俺なら、絶対に代わるのは嫌だ。
それが投手として生きてきた男の本音だった。


だが、その胸のさらに奥底には、山井の降板を考えている自分がいた。
一人でもランナーが出れば、どうなるかわからない。この試合を落とせば、シリーズの行方もどうなるかわからない。一点差の九回、抑える確率でいけば・・・・・・岩瀬だ。
この矛盾した思考の元をたどれば、岩瀬というストッパーの存在があり、何より、その後ろには落合がいた。
勝つために、その他の一切を捨て去る。森は落合の下で、そういう野球をやってきた。だからここまで辿り着けた、とも言える。
森は隣を見た。落合は微動だにせず、ベンチに座っていた。
「俺は投手のことはわかんねえから、お前に任せた――」
いつものように黙していた。それでも森には、落合の考えていることがわかった。だから迷っていた。記録と勝利、ロマンと現実、個人と組織。その狭間に森は立っていた。八回裏の中日の攻撃が始まろうとしていた。もう時間はなかった。このイニングが終わるまでに、九回のマウンドに誰を送るのかを決めなくてはならない。
落合が口を開いたのは、そのときだった。
「どうする―」
いつも何も言わない落合が、森に問うた。
それはつまり、落合の中で答えが出ているということだった。九回のマウンドには岩瀬を上げる。そう言っているに等しかった。
「ちょっと訊いてきます...............」
森はそう告げて、落合のもとを離れた。
ブルペンは静かだった。じっと、最終回が始まるのを待つような空気があった。そのなかに岩瀬の投球音だけが響いていた。
岡本は壁にある通話機を見つめていた。ベンチからの指令を受けるためのものだ。ドアや壁面と同様に余分な装飾はなく、無機質に沈黙している。
その機械音が鳴ると、リリーフ投手たちは一瞬ビクッと身を震わせる。それは、勝利と敗北の狭間で煮えたぎったマウンドへの召集を告げる報せであるからだ。
ブルペンという英語には、闘牛場へ引っ張り出される前の牛を囲っておく場所という意味があるのだという。その通りだった。呼ばれれば、リリーバーはどんなに怖くても、もうマウンドに向かうしかない。ただ、この試合ばかりは召集音は鳴らないはずだ。九回のマウンドに上がるのは山井のはずだ。
岡本の祈りは続いていた。
密室を震わせる高い音が響いたのは、そのときだった。
岡本と他のリリーフ投手たちの「えっ」という声が重なり、誰もが通話機のほうを振り返った。



(略、ベンチの宇野が、交代に驚く。森コーチが、球審の元に向かう落合の後を追う)



交代の言葉を、自分の目と耳で確かめなければ心が収まらなかった。落合が球審を呼んだ。
場内が山井コールに包まれるなか、落合は球審の耳元で告げた。
「山井のところに、岩瀬―――」
もう十一年もこの世界にいるベテランの審判員は一瞬、目を見開くと、今しがた聞いた言葉が間違いではないだろうかと確認するように、全く同じ台詞を自分で繰り返した。「やまいのところにいわせ」
そしてもう一度、目を見開いた。
観衆は山井の名を叫び続けていた。
誰もが完全試合を目前にした先発ピッチャーの登場を待っていた。歴史的な瞬間を見せてくれと願っていた。
その中に場内アナウンスが流れた。
「選手の交代をお知らせします。ピッチャー、山井に代わりまして、岩瀬―――」
怒号なのか、悲鳴なのか、嘆息なのか、そのいずれでもあるような巨大な声がドームに響いた。森はかつて聞いたことのない音の中で、改めてこの決断の重さを受け止めていた。一塁側ベンチの奥から岩瀬が現れた。
少し早足で喧騒のグラウンドに足を踏み入れた。ストッパーの登場シーンだ。いつもならば勝利を確信したファンの歓声が聞こえてくるはずだった。だが、この日は違っていた。
森は左右の耳がそれぞれ別の場所の音を聞いているかのような錯覚に陥った。昂りと悲しみ、怒りと嘆き、場内にはあらゆる感情が入り混じっていた。
この決断に味方はいない......。

それだけは、はっきりとわかった。もし、このイニングに失点するようなことがあれば、もし、この試合に敗れるようなことがあれば、想像を絶するような批判に晒されるだろう。あるいは永遠に汚名を背負っていくことになるかもしれない。
落合はそれを覚悟した上で答えを出した。そして、森も運命をともにすると決めたのだ。森は球審から受け取った真新しいボールを握ったまま、マウンドで岩瀬を待っていた。いつものように蒼白い顔でストッパーが仕事場へやってきた。そこは未だかつて、誰も踏んだことのないマウンドだった。落合と森が、道づれにしたのだ。
森は岩瀬にボールを手渡すと、こう言った。
「すまん」


私は記者席から身を乗り出した。眼前で起こっていることを頭の中で整理しなければならないと思った。
これから始まる九回のマウンドに向かっているのは山井ではなく、岩瀬だった。
(略)電話を会社に懸けた。
「まったく、なんてことをしてくれたんだろうな」
受話口から、デスクのとがった声が耳に刺さった。
「もう日本一どころじゃねぇぞ……」

(後略)