■■西村欣也のこと■■
— 抜井規泰 (@nezumi32) July 2, 2023
西村欣也という、私淑するスポーツ記者がいる。
長く朝日新聞の編集委員を務めた。60歳の定年と同時に、「65までの再雇用」を辞して社を去った。
彼のモノマネをしていては、彼を越えらることはできない。彼以上のスポーツ記事を書こう、書きたいと、のたうち回っていた。これは、西村自身も「あれが俺のピークだった」と認める作品だ。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
ぜひ、読んでもらいたい。
特に、朝日の若きスポーツ記者たちに、読んでもらいたい。
2000年シドニー五輪の開会式。朝日新聞の朝刊1面を飾った西村原稿だ。記事の紹介の前に、少し説明を加えたい。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
当時、朝日新聞ではIBMと共同開発した「Nシステム」という、記者がワープロやパソコンなどのキーボードで打った原稿を、デスク~整理記者~印刷工程へと送るシステムで新聞発行を行っていた。そのNシステムでは、3組の「モニター」がプリントアウトされた。ところで、記者が書いたそのままの文章を「原稿」という。デスクが原稿に目を通し、時に直しを加え、印刷に回す文章を「記事」という。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
プリントアウトされる3種類の「モニター」は、こうだ。西村欣也がシドニーから送ってきた「原稿」が「記事」となり、「控モニター」が、東京本社で内勤にあたっている僕らに回覧された。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
思わず、息をのんだ。
西村欣也の記者人生の最高傑作が、それが。
いまから、ご紹介する。
どうか、ご覧いただきたい。の、前に。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
シドニー五輪は、南半球で行われる初めての五輪だった。
国際政治では、東ティモールでの戦争が激化していた。
朝鮮半島では、北朝鮮と韓国の融和ムードの中、南北がはじめて、「統一旗」を掲げて開会式に臨んだ。
そんなシドニー五輪開会式の、西村欣也の最高傑作である。●戦争の世紀の終わり、和解の風
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
◇
日が、オーストラリアの大地に姿を消した。
春のぬくもりと夜の冷気がせめぎ合うシドニー・ホームブッシュベイ。五輪スタジアムが、十一万人の興奮をのみ込んで、南半球の闇に浮かぶ。
今世紀最後の祭りが、幕を開けた。人々は祭りがやってくる度に、その思い出と重ね合わせて、過去を語る。この世紀は、どんな色に塗られてきたのか。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日戦争の世紀だったと、多くの人が言う。一九一六年、四〇年、四四年。二つの大戦が、五輪の開催を押し流した。七二年、ミュンヘン大会は、テロに血塗られた。八〇年のモスクワ大会は、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、西側の諸国がボイコットした。八四年のロサンゼルス大会は、東側が不参加だった。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日冷戦が終わり、世紀が変わろうとする今も、銃の音は、やんだわけではない。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
「六歳と四歳の娘を連れて山へ逃げました。民兵に見つかったら殺される。子供たちが叫ばないように、ずっと抱きしめていた。山の中には、三週間いました」
アギダ・アマラル選手(二八)は言った。東ティモールが、インドネシアからの独立を住民投票で決めた昨年九月。騒乱で、家を焼かれた。野生のバナナ、イチゴだけで、飢えをしのいだ。冬を越えて、今年三月。彼女は裸足でマラソンの練習を再開した。焼きつくされた街並みは、そのままだ。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日走りながら、涙が止まらなかった。シドニー五輪への夢を、それでも、あきらめなかった。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
「INDIVIDUAL・OLYMPIC・ATHLETES」
プラカードにはそう記されている。開催国オーストラリア選手団の直前に、入場行進をした。旗は五輪旗だ。東ティモールは、まだ国連の暫定統治が続く。国としてではなく、個人として、五輪への参加を認められた。靴は、IOCからプレゼントされた。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日ソルトレーク冬季五輪招致にかかわる買収騒動から始まった一連のスキャンダルをぬぐうために、IOCはこの「個人参加」のカードを切った。サマランチ会長のスタンドプレーだという批判は、当然ある。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
それでも、アマラル選手がこの場所にいられることの意味は、けっして小さくない。韓国と北朝鮮の合同行進。「アリラン」が聞こえる。南北の選手が手を取り合い、スタンドに高く掲げた。十一万人の拍手がひときわ大きくなって、スタジアムを揺らす。国境のない白地に青の「統一旗」がはらんだ風は、新しい世紀を動かす推進力になるかもしれない。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日開会式前、国際アーチェリー公園で練習をする二人の女性の姿があった。姉妹のように見えた。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日韓国の金水寧選手(二九)と北朝鮮のチェ・オクシル選手(二六)だった。ソウル、バルセロナ大会で3個の金メダルを取り「神弓」と呼ばれた金選手が、チェ選手に熱心にアドバイスする。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日「うまいね。あなたなら、メダルに届く。問題は風よ。この風にさえ負けなければ、ね。私たちで金、銀を独占しちゃいましょう」。肩を抱いて、コーチをしていた。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日英国人がオーストラリアに入植したのは一七八八年。そのはるか以前から、大地には、風が吹き渡っていた。先住民アボリジニーの繊細な音楽には、その薫りが残る。時を超え、国境を渡って、風は吹く。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日百九十九の国・地域と東ティモール。「二百の国」の選手たちと、今、同じ風の中にいる。 その幸せを、かみしめようと思う。 サーチライトに照らされて、雲が風に運ばれていく。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
(シドニーにて 西村欣也)
この記事に、衝撃を受けた。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
時差のない、日本とシドニー。我々東京本社での内勤が終わったのは、朝刊締め切り後の午前3時過ぎだった。
その後、内勤者たちは当時の築地市場の寿司屋で、飲み会を開いた。その後、解散。築地近くのホテルで仮眠し、また次の朝刊作業に備える、というシフトだった。飲み会後、僕はもう一度本社に戻った。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
そして、ゴミ箱をあさり、「控」のゴム印が押された青モニターを探し、カバンに入れた。
この西村欣也の「記事原本」は、その後の僕のライバルだった。
いつもこの原本を取り出し、いつかこれを超える記事を書くと誓っていた。西村欣也が、65までの定年延長を断り、60で退社してから、もう7年がたつ。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
退職に際し、送別会を申し出た。
何人かの同僚、というか、先輩記者たちも同じように西村さんに打診したようだ。
「俺が本当に信頼していた何人かで会食したい」
と西村さんは言った。僕は会食の末席を濁した。その会食で、僕は西村欣也にある贈り物をした。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
あの日の「記事」だ。額装し、西村さんに渡した。そして、こう伝えた。
「僕の宝であり、かたきのようなものだ。あんたが死んだら、返せ
西村さんは、放駒理事長が亡くなった際に僕が書いた「評伝」を読み、「お前に追い越されたと思う」と語った。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
いや、全然違う。全く違う。
まだ、西村欣也あの記事は超えていない。
あれは、返してもらおうと思う。
私淑する西村欣也が死んだ。
西村欣也。
自分の個人的な思い出としては……普通、署名記事とか気にしないで読み流すのが新聞の特質上、通常の行為だと思うが…普通にそうやって読み流して、読み終えると「ん?なんか一味、普通の新聞記事(コラム)とは違うな、何者だ?」みたいにぐっと署名欄を二度見すると、彼の名前があった……というのが積み重なって、そして自然と覚えた、という記憶がある。
似たような例だと、毎日新聞の中国報道における上村幸治氏がそうだったっけ。
そして、歴史的使命を果たして退場した「週刊朝日」が、逆に報道の中心にいた時、連載コラムを持っていたはずだ。(と思ったが…どうだったかな。いま検索したレベルだとみつからねーや)
報知新聞社から朝日新聞社に移ったこともあるのかないのか、巨人に対して批判色の強い論調もあり、それで何か、両企業の間の「最前線」に立つ立場だった、という記憶もある。
大学卒業後報知新聞社に入社。1980年より読売ジャイアンツの番記者となり、主に当時ジャイアンツのエースピッチャーだった江川卓を担当する[2]。その関係で江川とは懇意の仲となり、江川が引退後に出版した自叙伝「たかが江川されど江川」では共著者を務めている。ただし、いわゆる江川事件(空白の一日事件)については当時から一貫して批判的な立場で、特に江川が法学部出身であることから「法律を学んだものなら『空白の一日』なんて存在しないことは容易にわかったはずだ」と本人に直言している[3]。
1990年に朝日新聞社に移る。1997年より運動部編集委員、1999年より編集局特別編集委員[4]。同紙スポーツ面に署名入りエッセイ記事「EYE 西村欣也」を長年にわたり執筆している。定年により2016年2月27日でコラム終了。
主にプロ野球を専門としている。特に、2004年のプロ野球再編問題では再編反対の論陣を張り、注目を集めた。読売ジャイアンツオーナー(当時)の渡邉恒雄に質問し、「たかが選手が」と返されて注目された。
(最も西村の質問である「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」といった内容は、後日古田敦也に、発言の事実自体を全面否定されており、捏造を元にした取材であった可能性も、指摘されている)
2016年3月30日のテレビ朝日、ニュース番組「報道ステーション」で、プロ野球・読売巨人軍の選手が公式戦の試合前の円陣で行なう「声出し」に絡んで、選手間で現金のやり取りが行われていた問題について、「第三者委員会では限界があるんで司直の手に委ねるしかないのに、なぜそれをコミッショナーがしないかというと、読売グループの巨大な力を持っている方が圧力をかけている」とコメント。しかし、巨人は野球賭博問題が発覚した2015年10月、警視庁に相談し捜査を進めてもらっており、巨人は「西村氏のコメントは公知の事実を歪曲しているだけなく、何ら根拠のない発言」と抗議。番組では後日、「確認の取材も別途していませんでした」と謝罪した。
ja.wikipedia.org
最後のテレ朝謝罪うんぬんの話はJ-CASTニュースの記事にもなってる。そういえばこのJ-CASTニュースも、元朝日OBのメディアだ…
www.j-cast.com
主だった新聞掲載の文章は、一冊の本にまとまっており、それだけでも一種スペシャルな存在だといっていいだろう
自分も持っているはずで、本棚を探って探りまくれば見つかるはずなのだが……
2023年7月3日午前1時現在、親しい関係だったらしい抜井氏のツイート以外、オフィシャルな「訃報」が見つからない…だれかご存じ?(※3日の朝刊に掲載された)
抜井氏の立場や西村氏との関係上、その情報が事実と異なると考える必然性はほぼ無いのだが、また「訃報」についてオフィシャルな情報がないというのは…微妙な状況だ。
最近では小室直樹氏、宅八郎氏らが、いわゆる報道機関の逝去報道より早く、「この人なら確かに、その人との関係は深いだろう」と思わせる人物がネット上に逝去の一報を伝えていた。
※その後、3日付の朝刊にて訃報が掲載。
www.asahi.com
上の連ツイとは別の、連ツイがあった
江川卓さんの、巨人入団の経緯をご存じの方は、もう少なくなっているのでしょうか。
— 抜井規泰 (@nezumi32) July 2, 2023
簡単に言うと、巨人が「空白の1日」と呼ばれるセコい手を使って、ドラフトを経ずに江川さんと契約。巨人がボイコットした翌日のドラフトで江川さんの交渉権を得たのは阪神。事態は紛糾し、コミッショナー裁定へ。裁定は、阪神の指名を認めた上で、「阪神の江川」と巨人の選手をトレードさせる、という内容でした。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
巨人が差し出したのは、当時エースだった小林繁投手。
小林さんはその後、巨人キラーとして活躍し続けました。小林さんは引退後、スポーツキャスターとしてテレビの世界へ。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
その後、江川さんも引退します。
小林さんの番組を潰して生まれたのが、「スポーツうるぐす」。逆から読むと、「すぐる」。
江川さんの思いとは関係なく、江川さんは小林さんに不義理を続けることになりました。それから何年もたち……。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
実は、江川さんが心の底から信頼を寄せる記者がいました。それが、西村欣也でした。二人は、互いになんでも話し合う、親友でした。
江川さんが、西村さんに相談をもちかけました。
「こんな話がきている」
と。日本酒の「大関」のCMのオファーでした。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
酒は、時間を超えて人と人とをつなぐことができる--そんなコンセプトのCMを作りたい、というオファーでした。
小林繁と、江川卓。あの因縁の二人が、人生で初めて、酒を酌み交わす、というCMでした。オファーでは、リハーサルは、なし。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
いきなり会う、という台本です。
スタジオで待ち受ける小林さんを、江川さんが訪ね、大関の日本酒で乾杯する、というCMでした。江川さんは、困り果てました。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
受けていいのか、受けるべきではないのか。
相談したのが、盟友・西村欣也でした。
西村さんが、なんて伝えたのかは、ナイショです。でも、とにかく、江川さんはCM出演を受諾しました。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
しかし、どうしても、怖い。
江川さんは、西村さんにこう言いました。
「ついてきてくれないか」
あのスタジオ撮影の傍らに、西村欣也がいました。
大関じゃなかった。黄桜ですね。ごめんなさい。https://t.co/gL9L02CzYpあの伝説のCMの舞台裏にも、西村欣也がいました。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
この話は2007年のCMで…無駄に馬齢を重ねているブログの特権で、その時に記事を書いて、残っている。
m-dojo.hatenadiary.com
www.youtube.com
もう一つ、加えておきたい。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2023年7月2日
西村欣也と古田敦也、それにプロ野球選手会の松原徹がいなかったら、日本のプロ野球はいま10球団1リーグになっていたことを、ここに記しておきたい。