大相撲の内閣総理大臣杯というのは、上から見ると、カップの外周がまん丸ではなく、かなりゆがんでいます。誰かが落としたりひっくり返したりしたんだろうなあ。それも、一度ではなく、過去に何度も。賜杯は、50年くらい前に一度、向かって左側の取っ手が取れたことがあると聞きました。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
賜杯は、95年前に銀座の店で調製されました。大正15年4月29日に、東宮御所で台覧相撲を催した際、当時の皇太子(のちの昭和天皇)から下賜金があり、それを原資に作られました。だから「賜杯」なわけです。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
様々なスポーツに天皇杯がありますが、実際に皇室からのお金で作製されたのは、賜杯のみです。
こうして作られた賜杯ですが、完成直後に大問題となります。皇室の菊花紋がデザインされていたのです。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
当時、太政官布告で、皇室以外の菊花紋の使用は禁じられていました。それに抵触するとして、宮内省や警視庁が動く大騒ぎとなりました。
公式には、このカップは鋳つぶされた、とされています。
作り直したのが、現在の賜杯です。この賜杯には様々な様々な物語があります。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
たとえば、カップの裏側。ここには、調製年月日が刻されているんですが、「大正十六年四月二十九日」という実際には存在しない日付が刻されています。
個人的に興味深いのは、戦中の金属供出。全国各地に、いまも鐘のない釣鐘堂がありますよね。相撲協会でも、あちこちの部屋からかき集めた銀製品を供出しており、その日の写真も残っています。しかし、賜杯は出さなかった。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
問題は、昭和20年3月10日の東京大空襲です。どうやって、賜杯を守ったのか。
当時の国技館は回向院の境内にありました。いまの都営住宅「両国シティーコア」の場所です。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
一面が火の海になる中、出羽海部屋の力士たちが駆けつけました。しかし、賜杯が入っている大金庫のダイヤル番号が分からない。そこで、回向院の境内の池の水を汲み、バケツリレーで金庫にかけ続けました。
こうして守り抜いた、重量29キロ、容量2斗(36リットル)の賜杯。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
相撲関係者たちの95年間の渾身の想いが詰まっているあの賜杯を見るたびに、いつも、なにか胸の奥が熱くなります。
【追記】
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
相撲協会にとって賜杯は、皇太子時代の昭和天皇から賜り、使用を許された優勝カップです。
1989年1月7日に昭和天皇が崩御。相撲協会はただちに、賜杯をどのようにすればいいか、宮内庁に対しておうかがいを立てました。
相撲協会は「おうかがいを立てるのは当然」と考えたのですが、宮内庁は困ったと思います。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
もちろん、「返せ」という選択肢はない。返されても困ります。かといって、賜杯は大相撲の宝。その宝について衣冠を正して尋ねてきた相撲協会に対し、「おたくのモノでしょ」と軽くあしらうわけにもいかない。
そこで宮内庁が出した結論は、
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
《賜杯については従来通りの扱いとなりましたので、右、通知いたします》
「従来通り」というのがどういうことなのかは示されていませんが、こういうのが、日本人の阿吽なんでしょうね。
たしか、上皇陛下が退位された際にも、同様のおうかがいを立てているはずです。
昭和天皇が崩御した翌1月8日が大相撲初場所の初日でした。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
あの時代をご存じない方は驚かれると思いますが、昭和天皇が体調を崩した昭和63年秋から、日本は大変な自粛ムードに包まれました。プロ野球の日本シリーズの優勝パレードが中止になったほか、長崎くんちなど全国の秋祭りが中止となりました。
そんな自粛ムードが続いた1987年が終わり、年が明けた直後の1月7日に昭和天皇が崩御。翌日の大相撲初場所をどうするか。賜杯をどうすればいいのか、相撲協会も大混乱しました。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
国技館の役員室で、鎮痛な表情で検討を重ねる二子山理事長や先代理事長の春日野相談役らを撮影した写真が残っています。
賜杯の従来通りの扱いが決まると、二子山理事長は、初日の1日延期を決定しました。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
平成元年の最初の日ではなく、翌1月9日からの本場所開催としたのです。
この決定に救われた横綱がいます。第61代横綱北勝海。いまの八角理事長です。
北勝海は原因不明の腰痛で、前年の名古屋場所から3場所連続で全休していました。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月23日
腰椎が潰れて神経が圧迫されていたのですが、当時のレントゲンの精度では、それが分からず、原因不明でした。
当初は、人の手を借りなければ、車の後部座席に乗り込むこともできない状態でした。
当時、腰痛はとにかく安静にするしか手だてがありませんでした。北勝海は、ただじっとしていました。しかし、安静にするということは、どんどん筋肉が落ちていきます。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月24日
たとえば新宿に八角理事長がいると、目立つ体をしています。しかし両国では、あるいは力士の中では、それほど大柄ではありません。
それほど体に恵まれてはいない北勝海の相撲は、とにかく動き回ることで勝機を紡いでいく相撲でした。安静にしているうちに、その生命線である「動ける体」が失われていく。しかも、腰痛は快癒する気配がありません。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月24日
困り果てた北勝海は、あらゆる伝手を頼り、一人のトレーナーと出会います。
当時、安静にすることが唯一の治療法だった腰痛を、動かして治す療法でした。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月24日
安静にしていたことで、なんとか歩けるようにはなった北勝海。ここから、壮絶なリハビリが始まります。
まず、背中の脊柱起立筋を整える運動を延々と繰り返します。そして、階段の上り下り。毎日8時間、階段を上りました。
そして、マイナス190度の冷凍庫にこもりました。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月24日
当時、運動後に体を冷やすことはタブーとされていました。北勝海の冷凍庫を使ったリハビリは、いまやスポーツ界で常識となっている「アイシング」の先駆けでした。
昭和最後の相撲は、大分のリハビリ施設のテレビで見ていました。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月24日
千代の富士ー大乃国
この一番で千代の富士は敗れ、破竹の連勝が53で止まりました。
兄弟子の敗戦にも、北勝海は何の感情もなかったといいます。「自分のことで精一杯で、ひとの相撲をあれこれ考える余裕なんてなかった」と。
そして、ついに復活した北勝海は、初場所に照準を定めます。3場所連続の全休からの復活。
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月24日
しかし、場所直前に高熱に見舞われました。立ち上がれないほどだったといいます。
元号が変わった平成元年の初場所。その初日の1日延期は、このタイミングで決まりました。1日の延期に助けられたのです。
こうして場所を迎えた北勝海は奇跡の復活優勝を果たすんですが、その舞台裏にはーー
— 抜井規泰 (@nezumi32) 2021年5月24日
といった話など、そんなこんなの大相撲の裏話を4年にわたって延々と描き続けております、「角界余話」。
本日の朝日新聞東京版に、第12シリーズの最終回(通算125回)を書きました。北の富士さんの最後の夢とは…