INVISIBLE Dojo. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

【新書メモ】「ドリフターズとその時代」〜既に”歴史”となった彼らの歩み、努力、そして葛藤とは

最近読んだ新書の内容を、とりあえずざっとまとめるシリーズ、第二弾です。


文春新書「ドリフターズとその時代」 笹山敬輔を紹介。

国民をテレビの前に集合させた男たち
視聴率五〇%を超えた「全員集合」はどのようにして生まれたのか。ザ・ドリフターズを気鋭の論者が舞台・演劇の視点から読み解く。


ドリフターズの起源は…と言うか芸能界そのものの母体は進駐軍クラブである。
にわかに需要の発生したこのジャズバンドには音楽家のみならず、高校生や大学生などのアマチュアも数多く参加した。
また彼らを斡旋する業者もここで経験を積み「芸能界」としてのプロダクションやマネジメント会社を立ち上げて行った。

そして占領が終わった後も1950年代に米軍基地などを中心に多数のバンドが活躍した。そんなバンドマンの中からドリフターズが誕生する。
バンドのメンバーは当時しばしば入れ替わったが、、そんな中でドリフターズに後のいかりや長介となる碇谷長一が加入する。

彼はギャグ大好きのコント志向であったが、一方で厳格な魚河岸の父に育てられ、ビシッとした「父性」を重んじる体質だった。
当時はどこの家庭も経験したかもしれない戦争、 父親の徴兵、空腹や貧困を経て、戦後の自由な空気の中でいかりやは映画や音楽を親しみ、ついにはパンドマンになることを目指して静岡から上京する。

米軍の前でも演奏し、その中で言葉が通じなくてもウケる、体を使ったギャグなどを試行錯誤の末身につけていた。


そしてメンバーの入れ替わりの激しいドリフターズにいかりやは参加、ギャグで頭角を現す。そこに加入したのがまだ10代の加藤茶
いかりやとの初対面を「あの顔に慣れるのに30年かかったね」と回想する。


当初は内気で、ステージで顔も上げられないほどだった加藤だが、ある番組で鼻の下にちょび髭をつけ自分を「カトちゃんです」と名乗ってから覚醒する。

どんどんドリフターズはギャグ重視となり、途中参入したはずのいかりや長介の「家長」体質もあらわになり、一部が分裂して「ドンキーカルテット」になるなどの幕間劇もあったが、 加藤といかりやは世代差を超えた友達感覚もあり、その分裂劇でも最終的に怒りやといっしょ2やることを選択する。

そして高木ブー 仲本工事荒井注が加わり ついにドリフターズの幕が開く。

特に加藤茶がアイドル的な人気も出て、グループを牽引する。笑いに関しては天才肌とも、相手のリアクションに対して受けが上手いとも、集団就職の若者代表的なイメージがあったとも言われる。


芸名はハナ肇が酔っ払いながらつけた、とも言われる。ひとつひとつに理由はあるらしいのだが「メンバーは誰一人納得していなかった」ものの、業界の大先輩から言われたらそれにせざるを得なかった。


ドリフは日劇にも出演し、そこで徹底的に鍛えられる。「リアクション」が重要だと言うこともここで学び 、舞台装置は大きな音が必要だとも知った。


クレイジー人気がやや低下したの同じ時期ドリフターズが急成長し、お笑いの世代交代を印象つけていた。しかしここでドリフターズ長く続く強烈なライバルが登場する。

それはもちろん「コント55号」。



ざっと書くコンセプトなのに、まだここまでで半分!志村けんも出てこない!!だが書きかけでまずUP。可能なら続きかきます。


【続き】

1960年代にテレビでは「演芸ブーム」が巻き起こり、それが終わったあと頭一つ抜きんでて生き残ったのがドリフターズコント55号。この二つには共通点と違いがあった。どちらも「テレビでは同じネタの繰り返しは通じない。次々新しいギャグを出さねばならない」ことに気づいた。だが、コント55号は浅草で培ったアドリブの才能があった。萩本欽一が言う…「コントには(スラングで)天丼、仁丹、丸三角という基本形があるのね。浅草の芸人はみんなそれを知ってるから「今日は天丼で」と決めて、何かの衣装と設定を決めればあとはアドリブでできる」。ドリフターズはバンド上がり、そんなことはさすがにできない。…そこで徹底的に稽古する仕組みをとった。
だから55号はレギュラーを 週に13本も持ったことがあったが、ドリフは絶頂期でも「全員集合」一本きりになる。

1968年にいかりや長介が長期入院したこともあり、この時期はコント55号が圧倒的にリード。そんな時に土曜夜8時…フジテレビ「コント55号の世界は笑う」という番組が30%以上の視聴率を取っている枠に、ドリフが殴り込みをかけることを TBS が決めた

しかし、ドリフで大丈夫か?やはりそれ以上の大物クレイジーキャッツでは?という不安の声は大きかったという。
この番組の一年半前、ドリフの裏方仕事を行う「ボーヤ」に一人の新人が加わる。志村康徳、のちの志村けんである。


志村の家もいかりやと同じくとても厳格で家庭の絶対君主である父親がいた。そんな厳格な父親がお笑い番組では唯一笑顔を見せた、というのが、志村が芸人の道を志す理由の一つだったという。その父親は40代後半で事故の後遺症があり、記憶障害を持つようになった。志村演じるボケたお年寄りはこの悲しい記憶も影響している。


志村は非常に笑いに貪欲、研究熱心で、ドリフ以外にも多くの喜劇を浴びるように見て吸収していった。というかもともと、ドリフのメンバーになるということは想像もできなかったので、ドリフでは笑いの作り方を勉強してその後独立することを考えていた。ドリフの付き人時代も、高校生からそのままボーヤの生活では社会経験が足りない、それがコントなどの幅を狭めることになる…と考えて1年分”脱走”して あえて様々なバイト経験をしたという。
それを終えて、なんとかもう一度ドリフに戻りたい、と謝罪した時、いかりやは「2度も弟子入りするぐらいだからよくよく好きなんだろう」といったという。復帰後の志村は加藤担当となり、加藤茶宅の居候になった。

そんな何者でもない志村の名前を、最初に知ったのは萩本欽一だ。
彼はテレビのスタッフから「毎週、うちのところに来てコント55号の台本をもらっていく新人がいる」と聞いていたのだ。そんな熱心な若者がいると…


そんな中全員集合がいよいよ本格的に始まる。
本格的な舞台美術(それが崩れるなどの仕掛けもある!)、山本直純(後に弟子のたかしまあきひこ)の音楽、有名芸能人がコントにも参加するという、当時としては無謀な企画……これによってコント55号を猛追する。放送8ヶ月でコント55号の番組は視聴率的に破れていき、土曜8時から撤退した。

コント55号自体も2年間の絶頂を追え、レギュラー番組が次々と終了、 コンビも単独の仕事が増えていく。プライベートでコント55号とドリフは仲がよかった。しかし笑いの真剣勝負であったことも間違いない、と著者は言う。

その後「8時だよ全員集合」は加藤茶の交通事故(自分も怪我したが加害者側であった)、一旦番組が日本テレビに移る(そんなことがあったんです!)などの紆余曲折を経ても、50-30%というとんでもない視聴率を確保していた。 ちなみにオープニングのおなじみの曲は、この再開の時から始まったそうだ。

1977年にいかりやは事務所を設立してナベプロから独立。番組内でも、いかりやを中心にしてドリフが1からギャグを作る仕組みが始まった。いかりや長介の「家長」気質がいい方向にリーダーシップを持った一方で、番組内には緊張感と言うか重い空気が流れ、いかりやと加藤茶の衝突も生まれるようになった。(それまでは加藤のアドリブに笑いを任せていたが、台本にはめ込む形式になっていたのだ)


しかしドリフの快進撃は続く。加藤茶も「すんずれいしました」「ちょっとだけよ」 などのギャグが大うけ。ただし厳しいいかりやにメンバーの不満が溜まることもつづく。
そして荒井注が、体力の限界を理由に脱退。そして志村けんが新メンバーになる。


最初の一年は全く勝手が分からず受けなかった志村けん
おまけに裏番組として「欽ちゃんのドンとやってみよう!」が始まる。テレビの鬼だった萩本欽一が「これからは素人の笑いだ」と開眼、コント55号とは全く別のコンセプトで始めたこの番組はあっという間にドリフに肉薄していく。

この時ドリフは何と番組を3ヶ月「休養」させ、戦略を練り直して合宿特訓する。
この時、他のメンバーと違って音楽バンドマンの経験のない志村けんに合わせて、コミックバンドたることを諦め純粋なコント集団になることを決意した、ともいう。


そして1976年3月「東村山音頭」で志村がついに大ブレーク。ドリフ黄金期が始まる。



それを支えたの が「TBS 美術に不可能はない」と豪語する舞台セット。
何しろ本物の車が飛び込んできて落ち、なんて設定まで実現化したのだから…屋台が崩れるオチも下手したら大事故。責任者は毎回胃痙攣を起こしていたそうだ。この仕掛けなどはドリフと美術スタッフがアメリカのディズニーランドから歌舞伎まで視察しいいものをどんどん取り込んでいった。

加藤から志村への主役交代…加藤はもちろん内申のライバル意識もあるんだが、結果的にはかなりスムーズに進んだと言っていい。それはやはりバンドマンというものが、全体の調和を考える性質があるからでは、と著者は考えている。いかりやもそれを守る立場に立つ。


ヒゲダンスやカラスの勝手でしょ、なども大ヒット。(この時加藤茶はギャグに恵まれずかなりきつかった時期。志村が動きだけのヒゲダンスを提案し救われたと回想)

これは志村が当時はかなり珍しい黒人音楽…ソウルやディスコに造詣が深く、最先端を吸収していたからだそうだ。ヒゲダンスのもと曲「Teddy」が、アメリカでリリースされ3ヶ月後にもう導入したという。
いかりや長介離婚、志村と仲本が競馬のノミ行為に参加するスキャンダルや、「俗悪番組」と批判されつつも……


しかし1980年代、新たなチャレンジャー「オレたちひょうきん族」が登場。
萩本欽一が「漫才ブームの後に日本の大衆の笑いの質が変わる」と予言していた、それが実体化した…

言葉の笑いに重点が移り、芸人がカリスマとなり「笑われる存在」ではなく「笑わせてやる存在」になったそんな時代の変化に全員集合は抗い続け「家族みんなで見てもらう笑い」にこだわる。

一方でドリフは高齢化し、売りの動きも悪くなる。50歳になったいかりや長介は体力的な疲れもあり、これまでのようにすべてをひっぱっていくのは無理…と言いつつも、そうでなくなればやっぱり面白くないという複雑な思いを抱く。 志村けんも逆に、今夜ドリフのエースとして自分の意見をまげない状況が増えてきた。報道などでもドリフ内部の葛藤や確執が取り沙汰される。


だが傍から見てると「二人は似た者同士」「親子喧嘩」にも見えていたのも一面の事実。それは志村けんが後に自分のコント集団の「座長・家長」であり続けたことからも見える。


1985年、全員集合はまだまだひょうきん族と互角の戦いをしつつも終了。
5人はそれまで認められなかった個人活動を行う事も決めた。

最終回のED「ババンババンバンバン」の締めは「また来週!」ではなく「長い間ありがとう!」であった。


その後、それぞれは独自の活動に乗り出す。
いかりや長介独眼竜政宗で老臣を演じるなどしたが、まだこの時期は台詞だけで精一杯。役者としての開花はもう少しあととなる。

仲本工事高木ブーはドラマや舞台俳優として活躍。




志村けん加藤茶は土曜8時に再登場、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で、土曜8時ひょうきん族にリターンマッチ。時代はバブル、膨大な制作費用をかけて志村のイメージを具現化する豪華なコントが実現した。一方でyoutuberの元祖と言われる、視聴者投稿ビデオコーナーが世界中に真似され、今に続く笑いの潮流となった。


そして「バカ殿様」の大ヒット、だいじょうぶだぁと、志村は喜劇王への道を歩み始める。
そして前述したように、番組制作の形は志村の絶対独裁、徹底したコント稽古……といかりや長介そっくりに(笑)。

その愛憎のもつれは、この時期に同じ番組(ドリフ大爆笑)に出演しながらも共演NGという事態にもなった。

それでも90年代にはドリフ再集結のコント番組がうまれ、この愛憎を抱えながらの関係が続いた。1995年、いかりや長介64歳、志村けん45歳……志村けん死亡説、というデマが流れる不思議な事件もあった。ただそれは、志村けんの人気も当時低下し、テレビの露出が少なくなっていたことも影響している。

1997年、いかりや長介はドラマ「踊る大捜査線」での和久平八郎役が高い評価を受け、俳優としての地位が揺るぎないものになる。他のメンバー音楽活動も再開した。1999年は富士フィルムのお正月 CM で荒井注も加わった6人ドリフが揃い踏みしている(その3ヶ月後に荒井注は逝去)。

そして2004年、いかりや長介が癌で亡くなる……。出棺する霊柩車には「オイッス」「次行ってみよう!」の声がかかった。

その後、志村けんはコントの大衆演劇化という夢にのり出し、多くの後輩芸人ならリスペクトを受ける喜劇王になり……そして2020年、コロナで突然の別れをつげた。



そんな、ドリフターズとその時代…(了)