最近読んだ新書などを、ざっくりまとめるシリーズ。
※あまり構成を工夫せず、メモ的に書いていきます
※音声入力するので、誤字など放置の方向で。
『日本史のツボ』(文春新書)、『ヤバイ日本史』などで知られる人気歴史学者が、専門である鎌倉時代を舞台に、満を持して取り組んだ意欲作です。本郷さんは鎌倉時代の基本史料『現代語訳 吾妻鏡』の編者の一人でもあります。誰もが日本史上の重要トピックとして覚えた経験はあるが、敗れた後鳥羽上皇が隠岐島に島流しにされたこと、北条政子の演説で鎌倉武士がひとつにまとまったことくらいで、実はよく知られていない「承久の乱」。
そもそも後鳥羽上皇はなぜ幕府に戦いを挑んだのか?
「錦の御旗」を敵に回して勝利したリーダー、北条義時はどんな人物だったのか?それを理解するには、後鳥羽上皇が歴代天皇のなかでも指折りの文武に長けたカリスマだったこと、そして頼朝以降の鎌倉幕府で繰り広げられた、血で血を洗う「仁義なき政争」を知る必要がある、と本郷さんは説きます。
さらにこの戦いは、朝廷と幕府の関係を決定的に変えました。以後、明治維新までのおよそ六百五十年間、武士が日本の政治を動かす時代となったのです。まさに承久の乱の起きた一二二一年こそ日本史の大きなターニングポイントといえます。
日本史ブームの中、第一人者による決定版の登場です。
主な内容
・鎌倉幕府の正体は「頼朝とその仲間たち」
・まったく異質だった武士の殺生観
・上皇の絶大な経済力
・北条氏よりも優遇された比企氏、平賀氏
・なぜ源氏将軍は三代で絶えたのか?
・血で血を洗う闘争に勝ち残った北条義時
・武士の切り崩しに成功した後鳥羽上皇
・実朝暗殺の“仕掛け人”は?
・戦いの本質は「在地領主vs.朝廷支配」だった
承久の乱ポイント。
朝廷から武士の時代に。このあと650年続く
東が初めて西を制したケースである
それほどの大事件なのに映画やドラマでも取り上げられたことがない(この本は2019年刊)
軍事的には鎌倉幕府の圧勝だった
だから見所は戦争が起きる前段階
承久の乱は後鳥羽上皇から仕掛けた
結果から見ると無謀なように見えるが、後鳥羽上皇は天皇家の歴史の中でも傑出した能力の持ち主。
鎌倉幕府は源氏の将軍が途絶えた状態。それでも勝利したのはなぜか?
※上の話も含め、2022年に大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でまさにこの時代が描かれたことにより様々な状況が一変している。
特に歴史上の事実関係(粛清と暗殺を巡る固有名詞)については個人的に、かなりドラマによって新情報を得た。よってこの要約も、その部分は大幅に省略する(笑)
結果、理論の部分を大目に収録する。
源平の戦いは源氏と平家というだけでなく在地領主 VS朝廷政権と 見た方が分かりやすい。
頼朝が富士川の戦いで勝利しても京都に進撃せず、関東に止まってその支配を固めたことが決定的に重要だった。これによって上記の構造を確立した。
時に当時の武士は本当に野蛮である。鎌倉時代後期に「男衾三郎絵詞」という絵巻物があり、主人公は架空の存在だが物語内の設定はリアルである。
その中に「馬庭の家に生首絶やすな」「門外通らん乞食、修行者めらは…駆けたて追物射にせよ」という言葉がある。
侍の家には、基本的に生首がなければいけないものである。無いなら通行人(の下層階級)を適当に弓で打て…これが当時の武士のたしなみ(笑)
ただしさすがに強いだけの乱暴者だと武士とはよべない。
どう分類すべきかと言うと国司が任期中に行う「大狩」 という狩猟行事に招待される人間が正式な武士。それで、乗馬技術や弓の技術も必須となる。
ある時外国人の研究したに「御家人というのは何人いたのか」ときかれ、そんな資料はないから必死で計算して推計してみた。だいたい千数百人ぐらい。年収はいまに直すと2000万程度。鎌倉幕府の中心にいたのは駿河、伊豆、相模、武蔵。例えば下野や千葉はその中に入らない。近いように見えて当時の千葉は利根川の支流が何本も流れて、別の地方と言うイメージがされていた。
(中盤は「鎌倉殿の13人」で描写された権力闘争と粛清のドラマを紹介している。ドラマのおかげで略す)
後鳥羽上皇の上皇という地位や、鎌倉幕府の執権などを見るときに重要なのは、日本史の法則として「重要な人物がその地位に着けば、それに付随してその地位に重要な意味が与えられる。つまり人に地位が付いてくる」こと。藤原摂関政治もしかり。
摂関政治を終わらせたのは後三条天皇の荘園整理令。きちんとした手続きのない荘園は没収され、力の源泉である経済力が削られた。
そして天皇の荘園整理に対抗するには、上皇ほどの権威がなければいけない。
天皇が支配する国家が、公有地として荘園を接収しようという時、上皇が妨害する…というのもあまりに奇妙だが、現実としてそうだった。
そういう中で後白河上皇や後鳥羽上皇が権力を結果的に持つようになった。
ちなみに後白河上皇は無能だったかしたたかだったか、という議論があるが。自分は無能説。成り行き任せで空手形を出して、私服を肥やすというだけの人だった。
後鳥羽上皇は逆に、歌人としても名高いが、武人としての能力も高かった。盗賊を自ら捕えて、赦免して部下にするということもあった。
相続者の途絶えた荘園を、自分の「内親王(娘)」に継がせた。内親王に継がせると、この当時は独身のままが多いので、結果的に親の自分の経済基盤となる。これによって財力を蓄えた。
そして後鳥羽上皇は自分の警護隊を称する「西面の武士」を編成。大物武士の大内惟義も加わった。近畿周辺の六か国の守護でもある。それが幕府に仕えつつ後鳥羽上皇の部下でもあると言う非常に微妙な状況になった。著者の本郷和人は、そんな重要な地域を支配していたのは、逆に朝廷から幕府に、大内をそこの担当にせよ、という要請があったとみている。
鎌倉幕府のタブーであった、幕府を通さずに武士に官位を与える、という行為も言葉上皇はし始めた。
この時期の日本史の見方として「権門体制論」と「東国国家論」の二つがある。ざっくりいえば、やっぱり天皇を中心に一つにまとまっていたよ、という見方と、幕府はほぼ独立した存在で相互に不干渉の自立した権力が東と西にあった、という考え方。本郷和人は東国国家論に近い立場だが相互に不干渉ではなく相互に干渉していながら、やはり二つの王権があったという。ちなみに学会では権門体制論が主流だと言う。
戦の推移も、 かなり端折りながらドラマでやったんで省略するけど、宇治川を突破した幕府軍がたった一か月で圧勝する。
後鳥羽上皇は責任を全部部下たちにに押し付けて(笑)、全面降伏のような院宣をだす。
ただ京都に進撃した鎌倉武士たちは、ほとんどその院宣が読めない(爆笑)
それはそれとしてなぜ後鳥羽上皇の軍隊は敗れたか。
京都の軍隊は、それを指揮する武士たちの、元々の郎党ではない。「大番」のために、各地から上京していた地方武士たちである。後鳥羽上皇派の守護が、地元に根こそぎ声をかけて動員したわけではない。だから士気も低いし、そもそも兵力が鎌倉軍に比べて少ないのである。
しかも後鳥羽上皇派の守護は、地理的な理由で西国が多い。だがこの時期の西国守護は、平家滅亡後に乗り込んできたいわば占領軍。これではやはり地元から動員することは難しくなる 。何代も前からその土地を支配してきた東国の守護達とは違っていた。
承久の乱のその後の影響としては朝廷から武力と権威が失われたということがある。
ただ面白いことにその結果、朝廷の「住民サービス」がクオリティ上昇(笑)。 だってそうしないと生き残れないんだから。「雑訴」と言われる細かい土地問題について裁定、解決するようになり、そのために能力優先で人材を抜擢した。
そして京都の占領支配(六波羅探題を務めた)によって、そういう 当時として先端の政治学を学んだ北条泰時は、 その良い面に学んで「御成敗式目」を作り出す。
結果的に 幕府と朝廷、どちらも「法による支配」「民を慈しむ”撫民”」を統治原理に組み込むことになる。結果的にはそんなポジティブな影響をもたらしたのが承久の乱であった。
ちなみに最後のあとがきで「承久の乱と言うマイナーなテーマは売れないと思われてるらしくて企画実現までにすごく苦労した。ある出版社では編集者は乗り気だったが偉いさんからてんでだめだと却下された…そんな中、文藝春秋の編集者さんは承久の乱でやろうよ、面白いよと、積極的になってくれたので、ついに20年来の夢が叶った!こんなマイナーな題材で新車を出してくれる文藝春秋の懐は深い…」と感謝感激雨あられ。
その3年後に、この時代がドラマ化され、本として十分にペイした……であろうから、めでたいハッピーエンドであった。
※なお本郷和人氏は、非常に著書も多くファンも多数いる売れっ子だが、その一方で 毀誉褒貶というか、かなりのアンチもいる様子。
そのへんは過去にも記事を書いたので、ご参照ありたい。