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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

【新書メモ】「戦国日本の軍事革命」〜なぜ16世紀に戦は変わり「天下人」が生まれたか?

最近読んだ新書の内容を、とりあえずざっとまとめるシリーズというのを始めてみたいと思います。

個人的に、普通に書評を書くと、どうしても面白い所に集中し、そこで膨大に書いて全体像を書ききれないことが多かった。
それはそれで意味があるが、全体的にメモしておきたい本もある。そういう風に使い分ける。


音声入力を使うので誤字脱字も多くなるかもしれません。

それでは中公新書「戦国日本の軍事革命」(藤田達生) 要約します。

16世紀中頃、戦国日本に伝来した鉄炮。砲術師・鉄炮鍛冶・武器商人により国内に広まると、長槍や騎馬隊が主力だった戦場の光景を一変させた。さらに織田信長は検地によって巨大兵站システムを整え、鉄炮の大量保有を実現。鉄炮や大砲を活用する新たな戦術を野戦・攻城戦・海戦に導入し、天下統一へと邁進した。軍隊や統治のあり方をも変えたこの「革命」が豊臣秀吉徳川家康と引き継がれ、近世を到来させるまでを描く。

日本において軍事がが歴史学の重要分野となったのは比較的最近、1990年代から。
それまではいろいろな理由によって、忌避されがちであった。

軍事革命というのはヨーロッパでも日本でも確実にあった。
それは一言で言うと銃の発達である。

10が発達するとどうなるか。
ぶっちゃけで言うと戦争が完全決着する。

槍や刀で戦っているときはなんだかんだと相手を完全屈服させるのが難しく、それが前提だった。種子島の一斉射撃によって、相手の根拠地を学情させ完全させるようになる。

ただそのためには種子島と弾丸と火薬を膨大に準備しなければいけない。
そのためには最終的には海外との貿易ルートが必要だった。

特になまりと硝石は、当時海外からの輸入が必須だった。

ちなみになぜ弾丸は鉛でないといけないか

・比重が大きい。だから空気抵抗に強い。
・柔らかいため着弾した時弾頭がキノコの傘のような形になるマッシュルーミングという現象が起きるこれによって相手に大きなダメージを与えられる。
・融点が低いから兵隊たちが手作りできる。鉛が手に入らないため銅や鉄玉を使うところもあったが、これは当然鍛冶屋さんじゃないとできない。また、銃ごとのの口径の微妙な違いや、火薬のカスが付いた後にそれによって口径が縮まることにも対応できる。

なぜ戦国時代の銃弾は「鉛玉」でないといけなかったか(戦国日本の軍事革命

今鉛のルートは、古戦場から掘り出した魂の元素によって判明する。タイの鉱山から取れた鉛が古戦場の弾丸から出てくるなんてことは珍しくない。

朝鮮半島から朝倉市一乗谷広島県を経由して入ってくる鉛などもある。

織田信長が朝倉家を滅ぼし、柴田勝家が越前支配したのは鉛の輸入に関して大きな意味があり、後に武田氏や北条氏が鉛不足になるのもここが関係しているようだ。

逆に、紀州一揆が起こると、そのルートから雑賀衆にタイ産鉛が入る…などの現象も起きる。

そうやって銃撃戦が戦場のメインになると、要塞攻略戦も「付け城」とか、「仕寄せ」と呼ばれる塹壕戦が主流になってくる。すなわち大規模土木工事こそが重要になる。これもまた金のかかるため、大大名に有利なようになった。

本書では付け城攻城戦について詳しく例を挙げ説明している


当時、伊賀甲賀から雑賀宗まで、高度な自治と平和を保つ地域勢力があった。
その一方で彼らの多くは傭兵である。と言うかむしろ、安心して傭兵として外で戦争ができるようにするために高度な自治が地元で発達したんだ。

とすると、天下統一は必ずしもミクロ的な平和や安定を意味しない。日本全体が戦乱状態だからこそ、平和や自由を保てる地域勢力はたくさんあった。ここを誤解しがちである




こうやって大大名になる巨大な軍事動画作られてくると、軍法もかなり緻密で厳しいものになる。要は動員した国衆等に対して 統制力が強まった。

それは軍法が成立し、勝手気ままな略奪などが使用は禁止されるようになったこととも繋がっている。抜け駆け禁止なども厳しくなった。



そして信長は1580年に大阪本願寺を撤退させて、近畿地方に敵対的勢力のいない状況を成立させた。そして一国単位の「仕置き」を行うようになった。「一職」という。荘園、寺社、国人…などの複雑な領有関係の重複を解消させたのだ。

ちなみに信長はこの革命において、銭でなくコメ単位で経済力を定義する石高制を採用。

後退したように見えて、輸入通貨をはじめとする様々な通貨の流通と変換ルートを、日本全国どこでも取れる米によって統一、安定した「通貨」として流通させる効果があった。


そして天下人のしたの家来は「知行地」を与えられ、それはどんどん別の時に交代するのが当たり前になってくる。その土地土地を独自に支配していた、は関係なくなってくる。在地性の否定。


そしてそういう支配システムの確率は、より巨大な軍事動員が可能となり兵站も巨大になった。


こういうシステム変更を実現するにあたっては大規模な「検地」が必要となり、それは増税だから地元の小規模地主=地侍にとっては大変な反発をうんだ。
逆にその反発する抵抗勢力をすりつぶすことで「織田・豊臣の統一戦争」は完成したという。武田や朝倉との大名同士の戦争よりある意味重要だったかもしれん。



これはやはり近畿や東海地方を中心に発達したもので、その結果として伊達政宗の軍隊と蒲生氏郷の軍隊を比較するだけで、政宗軍の軍律などはかなり古いものだった、という指摘があるある。


他、島原の乱や、江戸の平和が来てからの 軍事体制についても興味深い話が多かった。