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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

統一教会の「日本はエバ国家」論って、遠く源流に「日本の衣装は我が国の葬式服」民話とかがあるのかも(司馬遼太郎の本より)

統一教会が四大名節と呼ぶ記念日には、早朝5時からの「敬礼式」中、日本の昭和天皇アメリカ合衆国ロナルド・レーガン大統領、韓国の全斗煥大統領、等各国代表の身代わりをそれぞれその国の教団幹部が担当して聖壇に座った文鮮明夫妻に対し拝跪する儀式が行われていた。赤旗社会部は、この際に昭和天皇の身代わりとなり文鮮明夫妻に対し拝跪したのは日本統一教会の長であった久保木修己であったと述べている[122]。

有史以来、全世界にわたって発達してきた宗教と科学、即ち、精神文明と物質文明とは韓国を中心として、みな一つの真理のもとに吸収融合され、神が望まれる理想世界のものとして結実しなければならないのである(略)人類の父母となられたイエスが韓国に再臨されることが事実であるならば、その方は間違いなく韓国語を使われるであろうから、韓国語はまさに祖国語となるであろう[96]。したがってすべての民族はこの祖国語を使用せざるをえなくなるであろう[96]。 男性(アダム)韓国が、真理の国ということができるとすれば、女性(エバ)日本は産業の国といえるのではなかろうか[96]。深遠な真理をもって語りかけてくる男性に、女性は何をもって返答をするであろうか[96]。婚姻の約束が成った後は、仲人を立て、調度品を将来の夫のもとに納める習いがあるではないか[96]。日本は、驚異的な産業の発展を有している[96]。この産業・経済を男性韓国へ結納として収める歴史的必然性がある[96]。

統一教会エバ国家理論

ja.wikipedia.org




もともと、この種の思想や信仰に基づいた宗教団体が、なぜ日本の保守・右派と同盟関係を持てたかといえば「両者がカネを前にして、これぐらいの対立点を乗り越えるほど無節操であったから」でだいたい説明はカタがつきそうだ(笑)。
とはいえ、「天皇に扮した人物が文鮮明に礼拝する」という行事の存在が文芸春秋で暴露された時にはさすがに大問題となり、右派団体の中から反発も出たはず。
逆に、それが収まった経緯がよくわからないが、たぶん調べないでも「カネ」でこれまた説明がつくだろう(リピート)。




さて、それと別に、そもそもあまりに奇妙でおぞましい、「エバ国家とアダム国家」とか奇想天外支離滅裂な教義や、天皇(など各国元首)の礼拝などが教義に組み込まれているのか?
というとき、たまたま司馬遼太郎「歴史の舞台」妙録を読んでおりました。これは司馬遼太郎全集54で「「明治」という国家」などと一緒に収録されている。

うち「倭の印象」というコラムから。

…以下のことは、私より年上の、親しい朝鮮人作家からきいたことの受け売りだが、氏のお祖母さんは寒い夜、まだ幼かった孫の氏に、寝床のなかで、お伽ばなしや昔ばなしをきかせた。彼女のレパートリーのなかに、『倭奴(ウェノム)』とでも題すべきものがあった。

ウェノムはもと野蛮で、何も知らなかったという。食べ物など手でつかんで食べているから、それを哀れんで、韓人が箸というものを教えてやった。何もかも教えてやったところ、ウェノムもだんだん暮らしむきがよくなって、おれも儀礼が欲しい、と言ってきた。衣冠束帯を教えてくれというのだが、ウェノムごときにそんなものが、なんの必要があるものか、だからお前、葬式の衣装を教えてやったんだよウェノムが儀式のときに着ているあれは、じつは葬式の衣装なんだよ、というのである。

衣冠束帯のことで、明治の大官も、宮中の儀式などではこれを用いた。要するにこの衣装は、平安朝以来、日本においては神服衣装であり、権威と権力の象徴なのである。


ーあれはお前、韓人の葬服なんだよ。というのは、残念ながら実証的ではない。しかし実証なるものが小賢しくて興を醒ますほど、このお祖母さんの噺は、巨大な諧調と皮肉のカタマリになっている。


この噺は他の朝鮮人からも聞いたことがあるから、このお祖母さんの創作でなく、ひろく朝鮮にゆきわたっていた伝説なのであろう。おりから日本が朝鮮を合併して朝鮮総督府という大権力が二千万の朝鮮人の上に君臨していた。

そのとき、朝鮮半島の屋根という屋根の下で、それぞれの家の家刀自が、孫を寝かしつけつつ、この噺をしていたとすれば、民族的規模のユーモアといわねばならない。

まあ、面白い話というか、「最も強い民族排外主義は、最も強い民族抵抗運動になる」ということであろうなあ、と思ったことでありました。
約半世紀前、日本がまさにそれを先行して実行している。開国に際し欧米列強に飲み込まれないで済んだ理由の中に間違いなく、「尊王攘夷」的儒教、そして「国学」が生んだ自国の絶対優位や神聖を信じる、「排外主義」がございました。

それと同じように、政治的、武力的に日本が韓国を侵略、植民地支配をした中で、世俗の権力と日常の行政はそれに順応しながら、排外主義丸出しの「ウェノムは昔、どうしようもない野蛮人で、わしらが文化を教えてやって…」という、そんなフォークロアが、そのまま「精神的なレジスタンス」になり得ていたのではないか。


そして文鮮明も、そんなに知的、道徳的に研ぎ澄まされたような存在ではない。日本支配時代の北朝鮮地域で育った文鮮明は、上のような素朴な排外主義に基づいた「倭奴DIS民話」を繰り返し聴いていたのではあるまいか……と思うのだ。「日本はエバ国家」うんぬんという集金システムが、司馬遼太郎のいう「民族的規模のユーモア」に影響されたものだったら面白い。…そう感じたのでした。

もうひとつ余談。韓国的キリスト教の特徴として「黙示録が圧倒的に人気」だという…

再録します。
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韓国へ行った。
所用の傍ら、内村鑑三の孫弟子にあたる盧平久氏にお目にかかり、半日ほどいろいろと話し合った。
(略)
話題は当然、聖書や聖書関係図書の出版へと進んだが、その途中で話がちょっとチグハグ…(略)というのは、聖書は旧約新約あわせて66書から成り立っているが、その全部が平均的に読まれているわけではない…(略)売れるものと売れないものが、はっきりと出てくる。
そしてある書が売れて、ある書が売れないことは一種の常識になっており、私はなんとなくこの常識が、世界に共通する常識のように錯覚していた。
(略)
私がなにげなく「日本ではヨハネ黙示録はまず絶対に売れません。そこで希和対訳分冊反ではこれを最後に出版するつもりです」と言うと先生は非常に驚かれ、「韓国ではヨハネ黙示録の注解書を出せば金儲けできますよ」と言われた。
金儲けはもちろん冗談だが、そういえるほど韓国人にアピールするという意味である。
今度は私が驚いた。と同時に、これらをうまく対比すれば日韓両民族の民族性の違いがわかるのではないいかと思った。
というのは、聖書は世界どこでも同じ本だから、その中のどの書が特にアピールするかを調べて対比すれば、民族性の違いがある程度は把握できるはずだからである。
そこで盧先生に韓国人にアピールする本を尋ねると、先生はためらわずに「旧約ならホセア書、新約ならヨハネ文書(福音書と書簡)とヨハネ黙示録」と答えた。
「フーム」と私は内心でうなった。まさに日本と対照的、日本ではこの系統は少なくとも傍流であり、日本で読まれる書をこのように取り上げれば、「旧約ならアモス書、新約ならルカの著作(福音書使徒行伝)およびローマ書」となる、。もちろん流行的一時的現象は別だが、長期的恒常的に販売面からみれば、おそらくこれが異論の余地なき実態である。

以上、

より。(210、211P)
この話、山本氏の別の本で知って以前もこのブログで書いたが、出典や正確な記述を忘れていた。
今回確認できてありがたい。


全体的に同じ物をまず切り取り、そこの差異を見る事で深く分析する…ということでは、自分は以前から「インターネットは世界どこでも1990〜2000年代にヨーイドンで始まった。ここで人気のサイトやサービスは何か?の比較は国民性の比較になりえるのではないか」と、このブログで言っていたね。日本の「2ちゃんねる」に該当するのは何か。クソコラや大喜利はあるのか。アマゾンに完全席巻された国と、楽天やアリババなど、その国独自のネット通販がある国と……

そんな比較のように、クリスチャン内ではあろうが「聖書で人気(売れる本)なのはどこか?の比較」は面白い。

韓国でヨハネ黙示録が読まれるのはなぜだろう?
「過酷な植民地支配や朝鮮戦争の苦しさのなかで、「ここではないどこか」での一発逆転を人々は求めた」というのも、なんとなくもっともらしいが…これは自分が根拠もなく、しいていえば白蓮教や黄巾の乱などの中国の例から考えたこと。
山本氏は、盧先生の説とあわせて「感情において直感的につかめる、たとえていえば芸術品に『いいなあ』と感動するような理解」を韓国人は行い、日本人はその美術品に解説を求めるように、「これこれにはこういう意味や来歴があり…なるほど、すばらしい」という論証的な感動、理解を行う・・・との見方を紹介している。

finalventさんなんかは、どう考えるのだろうか。興味を持った。