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沢村忠の試合は結局『真剣勝負』だったか?そして本人の葛藤~「沢村忠に真空を飛ばせた男」を読む(完結編)

3回目となる今回でさすがに「沢村忠に真空を飛ばせた男」の紹介を終わらせねばいけない。
この後も、同書から興味深いシーンを紹介し続けていけば「連載第27回」とかやることも可能だが(マジ)それ読書の方が読まねぇだろうからな。
過去の2紹介記事
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かといってそれらを全部網羅して1回で書ききることも不可能なので、またも箇条書きの断片的な感想を並べる形で書いていきたい。


前の2回の話で、キックボクシングが始まる前のことは一応書いた。
ここからいよいよ沢村忠をエースに、日本のキックボクシングが幕を開ける展開となるのだが…全体のトーンを通じての包括的な感想。

UWF や猪木対アリ、昭和プロレスのノンフィクションを読んで感じるのと同じ事をこの本を読んで思ったのだが…「ある意味真剣勝負は、戦いました勝ちました負けました…で話はおしまい。しかし真剣勝負でない場合はどっちが勝ち負けと決めるか、それを選手は承知するのか、どんな展開になるのか、周囲がそれを知っていたか…とにわかに話が重層的になり、後からその試合を検証するノンフィクションとしてはむしろ論点が増えて多彩で面白くなる」

という不思議な矛盾だ。野口修が手がけたキックボクシングの歴史は、プロレスや空手と比べてもあまりノンフィクションが生まれていないと思うのだが、ここに焦点が当たった同書は、上のような理由でより興味深いものになったと思う。

以下、点描する。


・ 最初の最初、まさに日本での旗揚げとなる第1回キックボクシング興行では…極真空手と決裂した野口は、並行して進めていた「日本拳法」との連携を全面に打ち出し、同門下選手をエースにしようとしていた。しかし……いや、これは日本拳法にとっては名誉の話だが、彼らは八百長試合お断りと、キックボクシングとの関係が始まる前から断絶する。



・ドラマチックな話である、この証言を作者は「ぎりぎり」で得ることに成功した。いや正確には、八十歳のその時の選手がタッチの差で体調を損ね、直接表現を取り損ねてはいるのだが、ある形で作者は確信を得ることができている。また道場での、日本拳法開祖と野口修の、ある光景を目撃者から得る。これらによって、最初から真剣勝負の世界とは別物、で始まったキックボクシングの黎明期の輪郭はくっきりと浮かび上がる。



・ただし、日本で一番詳しく調べたであろうと筆者も、タイ側からさらに決定的な表現が出ているとされる同国ムエタイ専門誌「ムエサヤーム」1967年1月号を入手することができず、伝聞で内容を再現するのみであった。はっきり分からない(見つからない)資料を分からない・見つからないと書くのは何とも正直だが(笑)、貴重な情報なので逆にこの雑誌を「公開指名手配」したい。タイやキックに関わりがある人、上記の雑誌は非常に日本の格闘技史的に重要な意味を持つので、ちょっと探して頂きたい(笑)



・こういう作り試合をするとき、 「そもそも結果の決まっていないエンタメ試合をする方が、エンタメ素人の格闘家にとっては難しい」というのがネックになるが、実はムエタイ選手というのは猛烈にこの種の「仕事」がうまいらしいのである。それはもう全員がヴォルク・ハンなみというべきか(笑)。なぜかと言うと、タイではお祭りなどでそういう、エキシビション的なことも結構行われるからだとか…これは一説。



・そういう仕組みのある中で、極真&日本拳法と決裂した野口修は、なんだかんだと悩みつつ、前座要員の一人だった、のちの「沢村忠」に白羽の矢を立て、エースとして抜擢する。




・様々な葛藤や反発を抱えつつ……それは彼の誠実さを意味する… それでも沢村は、最終的に「真剣勝負ならざる競技での、勝ち役のエース」という立場を受け入れる。その決断をした、ということは様々な葛藤や反発があったとしても、まずは認識しなければいけないだろう。だが、そうであるからこそ以下のような逸話が彩りを増してくる。



・旗揚げ第2戦、沢村にとっても2戦目となるソマン戦だが、ソマン本人が「負け役をのまない」と言い出し、この試合が突然ガチンコになる。 レフェリーが『沢ちゃん度胸あるなあ』と驚き、観戦した日本拳法の選手が「むしろ彼はよくやった」と讃える健闘を見せる沢村だったが、見事に KO 負けした。



・しかし野口はそこで一気に路線変更し、沢村の負け(負傷の程度)をむしろ誇張した上で『生死の境をさまよう完敗を喫した男が、逆境から這い上がる』という形で沢村忠ストーリーを盛り上げた。



・沢村は、キックボクシングのレギュラー番組が始まる前武者修行という形でタイを訪れ、現地ルンピニースタジアムで試合を1試合している。これは沢村が「真剣勝負」をしないことに一種の葛藤があり、情報の伝わりにくい外国でその真剣勝負をやってみたかったのではないか。



・しかしその試合も映像を見る限り、『沢村ほ主観としては真剣だったかもしれないが、おそらく相手は、そして公式にはエキシビション扱い』の試合内容にとどまった。



・それでも極真空手の猛者(神村栄一)が『当時、空手は脛で相手を蹴る発想がそもそもなかった。ハイキックという技もなかった。これを広めたのは沢村で、芦原英幸も彼の影響で足技を進化させた』と認めるような、そんな技術の先駆者でも沢村はあった。



・テレビのレギュラー中継(ここには、グレート草津をプロレスのエースにして「分単位でスターを作ってやる」と豪語、ルーテーズを怒らせたと言うTBSの 怪人・森忠大も関わっている)、梶原一騎の劇画(そしてアニメ化)、様々なメディアの特集などもあり、キックは大ブームを迎える。 TBS 中継の実況担当は、のちに1987年プロ野球日本シリーズなどを担当した名アナ・石川顕で「真空飛び膝蹴り」も、彼の命名だとか。



・そしたら、他のテレビ局や興行団体が次々とキックボクシングに参入した。なぜ「キックボクシング」を商標登録したり、元祖としての既得権を利用して新規参入を拒まなかったのか?



・一言で言うと、前に書いたような形で、野口家全体が右翼人脈の保護を受けていた。キックボクシングの新規参入ではこの右翼人脈を逆手に取られて、より大きな勢力から、新規参入を飲まされたのだ。それでも最後の意地を発揮し、むしろ野口家が傘下に入ったら?という提案は拒否し、お互い邪魔をしないという決定をした。それが今のキック団体乱立にも影を落としている。



・そのどさくさで日本テレビのキックボクシング中継には、全く無名の人間が解説役として抜擢された。その名は安部直也、のちの名を安部譲二。現役やくざだったが「バレなきゃ大丈夫」の一言でOKが出た(笑)



・そんな興行戦争の中で、沢村と戦ったタイ人選手カンワンプライが、1961年1月の試合で、突然八百長破りを行い沢村忠に勝利する。そして2ヶ月後 TBS の沢村の団体から、日本テレビの団体に移籍する。沢村の首を獲った男として商品価値を高めた上で引き抜くと言う、日本テレビの仁義なき陰謀だった。


・このカンワンプライは、日本テレビの団体で添野義二に判定勝利、山崎照朝に KO 負けする。山崎は空手式の前蹴りで、1ラウンド勝利した。


・しかし結局テレビの視聴率競争では元祖 TBS のキックボクシングのみが生き残り、他は敗れる。その理由は「 TBS は毎週のようにエース沢村忠が登場してスカッと勝つが、他は真剣勝負だったため、あまり盛り上がらなかったから」と関係者は口をそろえる。


沢村忠は結果的に「100連続KO勝ち」を達成している。さすがにこの辺になるとメディアも距離を置いた物言い…八百長をほのめかすような形をしている。そして意外なことに、沢村ブームの生みの親の一人である梶原一騎も、そもそもは試合が真剣勝負だと思い込んでおり、このカラクリがわかると「あいつとはもう会わない」と立腹し、「キックの鬼」も連載を自主的に打ち切った 。


・さらに意外な人物も登場する。なんと後の東京都知事石原慎太郎が「全日本キックボクシング協会」のコミッショナーに就任。「八百長は絶対許さない」「フィクションがあったらそれはスポーツではない」「私はスポーツのコミッショナーに就任したのだ」と当てつけるあてつける。その後の時点でも「そもそもスポーツの尊厳とは真剣勝負にある」、イニシャルトークで「S」の試合は八百長だといってる。…時に石原慎太郎は、そもそも映画界、すなわち芸能界や、こういう格闘技業界と交流があったから、その流れで右翼団体系の人士と関わりがあり、その結果として後の自民党右派の大物となったのではなかろうか。元々個人的な資質としては天皇制などにも批判的な、良くも悪くもラディカルな個人主義的思想にたつ人間だったはずだが。


・周りの人間は一方で、こう沢村本人を評する。
「彼は苦しかった。私も含めてみんな彼を守れなかった」
「弱い選手なら苦しまなかったもしれない。彼は弱くなかった。今日は来なかったから苦しかったのかもしれない」
「沢ちゃんがいなければキックは続かない、ということをみんなわかっていた。わかっていて知らんふりをしている」
「サームラはイイヒト。やさしい男だった。いい人だったから俺は負けた。それだけのことだ…ただこれだけは言っておく。サームラは本当に強かった」
「結末は決まっているのなら、ぜこんなに血を吐くような練習をするんだろう」

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沢村忠に真空を飛ばせた男」より 結末が決まっているならなぜこんなに練習を?


・しかし、作者が野口修本人に、この八百長のことを正式に認めさせようとすると…ここまで外堀が埋まっているのに、絶対に野口はそれを認めなかった。この部分は、取材風景を描くノンフィクションのなかでも、極めて緊張感に満ちた場面として描かれている。


・そして最終的に沢村は、劇的な形で自分のキャリアに幕を引く。詳しくは同書を見て欲しいが、野口との関係もそこで終わる。そして野口は、ひょんなことから発掘した金の卵「五木ひろし」や、生活上のパートナーにも後になった作詞家「山口洋子」を武器に、格闘技業界より更に規模が大きく華やかな芸能興行での成功を夢見、…そして挫折する。

この辺のことは格闘技に興味を持って読む人には些か退屈かもしれないが、自分は柳沢みきおの芸能界漫画「流行唄」みたいなので楽しく読めた。…と言うか、プロレスの八百長話のように「公然の秘密、だけど決定的な証言はあまり得られない」という面がある「芸能界でのレコード大賞などの賞レースをめぐる根回し」「歌手1人が売れっ子になると、どれだけ周囲が儲かって潤うか」などが具体的に分かって実に面白い。

これは本書のメインテーマ的にはまったくの余談なのだけど、印象に残ったので記録に残しておこう。五木ひろしも野口と、作詞家山口洋子から離れようとして感情的なもつれが生まれた。
その時山口洋子五木ひろしはこんな言い争いをしたと言う。

「森進一は溝に落ちても水たまりに落ちても一輪のバラなのよ。あなたは花瓶。素晴らしい花瓶だけど花を生けなきゃ映えようがない」
「花は枯れてしまっておしまいですけど、花瓶は骨董で残ります」

…うまい返しだと思うが、山口洋子は「流行唄は骨董で残ってはいけない。花は枯れ、流行歌も時代の波まで散り果てるのが似合っている。骨董で残りたいなんて、そんな歌い手は情けない」と逆に五木ひろしに対してさらに冷めたのだという。ここは芸談としておもしろし。
石ノ森章太郎手塚治虫のも、非常に似た会話をしていたのを思い出した.



・最後に。この物語はメルマガ「水道橋博士のメルマ旬報」で掲載され、それがもととなって新潮社から発行され、講談社ノンフィクション賞本田靖春賞)を受賞した。
ネットフリックス制作公開の作品は映画賞をとれるのかどうか、みたいな議論があるが、「メルマガ」媒体の作品のノンフィクション賞受賞はそれに先立つ形となった。
もともと、ノンフィクションは「雑誌に連載・発表」して「それが単行本になって」、やっと採算がとれる、それこそ、賞に名前が記念された本田靖春氏と、それを見出した文藝春秋田中健五氏が、業界内でかなりに無理を通して、原稿料の「相場」を含め、なんとかそういう慣習を作った。だが、雑誌でノンフィクションが連載されるスペースがどんどん無くなり…というか雑誌自体が無くなって、いま、どうすればいいのか業界全体が迷走中だ。メルマガを連載媒体にできた同作は、そういう意味でもブレークスルーだったのではないか。






こんな形でこの大著の紹介を、「あそことあそこも紹介したいのだが…」と思いながら一応を終える。自分はキックボクシングを今も含めてそれほど熱心に似ているほうではないのだが、それでも色々な形で楽しめた。
(了)