旧東京都豊島区椎名町四丁目――戦後の日本漫画界の礎となった手塚治虫や石ノ森章太郎、赤塚不二夫などの天才作家が住んだ「トキワ荘」。今なお、漫画史に燦然と輝く伝説の「トキワ荘」に当時、出入りしていたパロディ漫画の第一人者・長谷邦夫がSF風に描いたもうひとつの“トキワ荘体験”!
長谷(ながたに)邦夫という方は、いまの某田中圭一氏や、某麻雀マンガ「一八先生」に通じるような「パロディ漫画」の先駆けでもあり、赤塚不二夫の爆発的な笑いを読んだ最盛時のギャグマンガのブレーン、影武者のひとりだったそうな。
筒井康隆「東海道戦争」も漫画化してたんじゃなかったかな。
トキワ荘グループが創立したアニメ企画会社スタジオゼロに入社する。同社雑誌部のチーフアシスタントになり、『オバケのQ太郎』や『レインボー戦隊ロビン』を手掛ける。1965年、赤塚のフジオ・プロダクション創立に参加する。
1969年に『COM』に掲載された「バカ式」(つげ義春の『ねじ式』と赤塚不二夫の『天才バカボン』の混合)に代表される一連の混合パロディ漫画は、当時流行っていた漫画評論におけるギャグ漫画軽視や過剰解釈に対する強烈なメッセージであった。しかし掲載誌の変更に伴い、そういったメッセージ性は減少していった。
フジオ・プロではアイデアマン・作画などを担当し、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』『ギャグゲリラ』など主要作品の全てに関わる。また、赤塚のアメリカ取材(『MAD』編集部への往訪)や赤塚が企画した写真漫画(『週刊少年サンデー』掲載。アクターとして出演)にも携わったほか、「赤塚不二夫責任編集」と銘打った雑誌『まんがNo.1』の事実上の編集長となり、後年は赤塚のマネジメントも担当した。ゴーストライターとして赤塚名義で発表した原稿も多い。
『ライブ・イン・ハトヤ』や『ウナギイヌ合唱隊』など、赤塚が漫画以外の活動をした時も常に共に行動するなど一心同体の存在だったが、赤塚が酒に溺れて漫画活動に支障を来たすようになったとされる1994年にフジオ・プロを退職した[1][2]。 飛鳥新社の『日刊アスカ』の編集部・マンガ班顧問を務めたが、休刊になったのちは単独で仕事をしていた[3]。
(略)
漫画家として創作活動をするよりも、…講師として後進の指導を行っていた。このため、同時代の漫画事情に同年代の漫画家よりも詳しかった。
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そう、夏目房之介的に、漫画の実作者から「研究者」のほうに比重を置き、まだ漫画の学問的な研究作法が確立していない時にそれをけん引した一人でもある。だから自分が目撃した「漫画史」を、記録として残していくことにも自覚的だったのだ。
そんなひとの、トキワ荘体験漫画。有名な、若くして亡くなった石ノ森章太郎のお姉さんとも当然面識があった。
「私がトキワ荘で…を見た、聞いた」と一人称で語れる貴重な存在。
いまでは、もはや片手で数えられるかもしれない。それを漫画という形式で記録に残した人は、他のジャンルと比べるとそりゃけた違いに多いが、客観的には貴重な存在なのだ。
これは資料として購入保存しておこう。
グループ・ゼロはこういう超安値の期間限定発売が多い。古典名作の復刻会社らしい。
自分は「プロレススーパースター列伝」キンドル版の供給会社として名前を、書影を貼るたびに目にしている。
そういう会社らしいのだが、ちょっと面白そうではあるな
すでにひと昔、ふた昔前になった名作は、そうは電子書籍でも売れないだろう。ただ、そんなニッチな需要に普段は少しずつ応えながら、時折は超安値のセールも期間限定で実施し、普及させる。
この種の作品には「売れなかったらどうせ収入ゼロ円だしな」という力学も働く。
何がどんなふうに売れていくのか、ちょっと興味がわく。
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