「結論の出ない無意味な議論」という意味で「神学論争」という言葉が使われることが多いが、実は「神学論争」ほど明確な結論を生み出してきたものはない。神が三位一体であることやキリストが「神性」と「人性」を有することなど、古代末期の「神学論争」を経てほぼ不可逆的な仕方で決定的に確定した。
— 山本芳久 (@201yos1) January 24, 2021
その通り。 https://t.co/SmaxTBVfPg
— 槍野スギオ (@sounosugio) 2021年1月24日
「それは神学論争だよ」といって議論を避けるのは、議論ができない脳みそのやつらの常套句。 https://t.co/9lkFW5gmVs
— 大井学 (@ManabuOoi) 2021年1月24日
神学論争とは結論が出ない議論ではなく、「当事者以外にはほとんど意義がわからない議論」のことをいうのでは? https://t.co/ZB3YHy9uMu
— KK⚡️通信設備費 (@ediok_koide) 2021年1月24日
異教徒にはどんな結論が出てもどちらでもいい無意味な議論 https://t.co/dADEAYfFsz
— こんのまにあ たくお (@takumikouki6991) 2021年1月24日
しかし論争に敗れた側がすべて結論を受け入れたというよりは分裂しても弱体化していったことが「確定」の中身であり重要なのは一定の結論を強制する権力の独占であるということが示唆されているのではないか(だからそこが破れた時代になるとイメージが変わってしまう)。 https://t.co/itnq2SUDik
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2021年1月24日
ご信仰自体は尊重しますが【神が三位一体であることやキリストが「神性」と「人性」を有すること】が「確定した」かどうかはその宗教の外から見ると…
— INVISIBLE DOJO (@mdojo1) 2021年1月24日
(そういう意味において「神学論争」という比喩が使われるのも、また仕方なしかと)https://t.co/iE9bGsH6vz
これを読み、最後のツイートを書きながら思い出したのは、呉智英のこの文章。彼は吉本隆明論に際して、当時の思想状況と論壇を「神学」にたとえた。
・・・・私たちは、まことに不思議な「学問」を知っている。神学である。聖書学や宗教学や、歴史学の一分野としてのキリスト教史のことではない。神学は、さすがにキリスト教が主要宗教になったことがない日本では、キリスト教系の大学に見られるだけで、全くはやらない学 間である。が、欧米では、物理学や国語学や経済学など、学問の各分野と全く等価である学問なのである。それが神学である。
神学がどれほど不思議な学問であるか、ちょっと考えてみるだけでわかるであろう。この学間においては、何万冊の専門書を読破した神学者に対しても、シロートが完全に対抗し得る のである。この世に、エホバという名前の神がいる。それは唯一絶対全能神である。神が唯 一なのに、どうしてわざわざ「エホバ」という呼称が必要なのか知らないが、とにかくそう である。このエホバが、この世を創造したのであり、この世のすべてを完全に支配している のであり、そのことは聖書に、聖書のみに書いてあるのである。こういうバカげたことは、 まともなシロートなら、とても信じられない。だから、神学者たちは、まともなシロートを決して相手にしない…
- 作者:呉 智英
- 発売日: 1996/07/01
- メディア: 文庫
「決着のつかない論争を神学論争というけど、神学論争はかなり明確な結論が出ている」というツイートも面白いが、大屋雄裕氏らのいう「いやそれって、勝者が結論を強制する権力を独占したってことでしょ」のツッコミもさらにオモシロカタので記録する。
そして、話題の漫画「チ。」も、神学が当然重要な意味を持って登場してくる。学問の王道中の王道、すべての他の諸学はこの学問の召使であった。だが、召使の中には叛意を抱くものもいる・・・・・・・・