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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

「twitter、トランプ追放」「メルケルがそれを批判」~を予言していた大屋雄裕「自由か、さもなくば幸福か?」

jp.techcrunch.com

【1月12日 AFP】交流サイト(SNS)大手がドナルド・トランプDonald Trump米大統領のアカウントを永久停止したことについて、アンゲラ・メルケルAngela Merkel)独首相は問題だと苦言を呈した。首相の報道官が11日、明らかにした。言論の自由はこうしたSNSの経営陣によって決定されるべきではないとしている。

 シュテフェン・ザイベルト(Steffen Seibert)報道官は、「言論の自由は、根本的に重要な基本的人権だ。そしてこの基本的人権が制限され得るのは、法律を通じて、また立法者が定めた枠組みの中でであり、ソーシャルメディア各社の経営陣の決定によってではない」と…
www.afpbb.com


以下、この本から引用する

自由か、さもなくば幸福か? ─21世紀の〈あり得べき社会〉を問う 大屋雄裕

20世紀の苦闘と幻滅を経て、私たちの社会は、どこへ向かおうとしているのか?“あり得べき社会”を構想する。

…ここでは、国家が法によって認めた権利が、私企業が我々に締結することを迫る契約によって失われていることになるだろう。中間団体による規制が、国家のそれと食い違い、それ以上に我々をコントロールしようとしているのだ。
19世紀半ばに自由を脅かしていたのが規範で、20世紀頭にはそれが国家の力で、21世紀半ばのかなりの部分で自由を脅かしたのが市場だったなら、わたしの議論というのは、二〇世紀末から二一世紀にかけて別の規制手段――コード――こそが懸念となることを理解すべきだということだ。(レッシグ前掲、一五四一五頁)

国家の三要件

そして、このアーキテクチャに直面した我々が問わなくてはならないのは、古典的に「法」を通じて動作する国家権力はこれと比較してはるかに危険な存在なのかということだ。インターネットを支配する巨大企業や、グローバルなビジネスを展開する多国籍企業アーキテクチャを利用して我々の行動をコントロールしているとして、それとの比較において国家こそが我々の最大の敵であり警戒すべき存在だということになるのだろうか。おそらくそうではない。


第一に、国家は確かに全体からすれば非常に大きな実力を独占しているが、チェック・アンド・バランスが確保されている。立法・司法・行政の三権が互いを監視し、抑制しあうことで国家全体が暴走する危険を防いでいるのだが、これに対してたとえば企業では経営陣の意思が統一され、全体として行動できることが重視されるだろう。


第二に、国家のなし得る行為に対しては憲法という枠がはめられているし、実際の手続にも、たとえば行政手続法のように多くの規制が加えられ、国民に対する透明性や答責(アカウンタビリティ)の確保が求められている。これに対して、企業が責任を負っているのは主にその株主に対してであり、たとえその行動その行動の影響を強く受けるとしても、一般の消費者や頭客に対する情報提供は限定的なものにととまるし、手続面での規制も乏しい。


第三に、たとえば憲法一四条一項目が「すべて国民は、法の下に平等であつて人種、信条、人は社会的関係において、差別されない」と定めているように、国家にはその成員をすべて平等に・無差別に扱うことが求められる。
これに対して企業が「お得意さま」を優遇するのはごく一般的な慣習だろう。もちろん経営効率という観点からは、利用頻度の高くない・あまり金を持っていない顧客よりも「お得意さま」へのサービスに力を注いだほうが有益に違いないのだ。
「国家の正統性・必要性を根本的に疑い、「政治哲学の根本問題はそもそも国家がなければならないのかどうかにあり、この問題は国家がどのように組織されるべきかという問題に先行する」と喝破した哲学者ロバート・ノージック(Robert Nozick,1938-2002)は、正当化可能な最小限のものとして「最小国家」を認めるに至った(『アナーキー・国家・ユートピア 国家の正当性とその限界」木鐸社、一九九二、四頁〔訳を改めた])。


なぜ国家が必要なのか。治安維持や裁判といった機能を、なぜ企業に委ねてはいけないのか。最低限の国家機能(最小国家)すら置かず、すべてを市場を通じた供給に委ねるというモデル(超最小国家)ではいけないのか。「なぜ無政府状態にしておかないのか(Why not have anarchy?)」(同)という問題関心を根幹に据えたノージックでさえ拒否した「超最小国家」と「最小国家」の差異は、統治の対象である我々を平等無差別に扱う義務があるかどうかという点であった。


つまり全体的に言えば、その暴走を警戒して国家にはさまざまな制約が加えられているのに対し、中間団体にはそのような制約が乏しく、だからこそサービスの提供は効率的であるかもしれない。だが、そうであるとして、我々の生活や人権が、我々を平等に扱わなくてもよい主体に自由に制約されることを、我々は望むのかどうか。それが規制主体としての国家と中間団体を比較する際に問われる問題なのだ。

企業活動の危険性

たとえばその兆候を「グーグル八分」と呼ばれる現象に見て取ることができるかもしれない。
よく知られているとおり、グーグルはインターネット上で・・・・・・・(後略)