村上紀夫「流転する明智光秀の首塚」
という論文、主題は近畿に複数ある「首塚」の言い伝えと場所の変化を追ったものだけど、最後のまとめに重要な指摘があります
…変容がなぜ一八世紀後半でなければならなかったのか。
そこには明智光秀への社会的な視線が変わってきたことがある。
一七世紀の時点では、明智光秀は「竊」に複数の寺院で供養が行われており、その際の戒名さえ、寺院によってバラバラであった。
ところが、一八世紀後半には光秀への視線に変化が見えてくる。明和四年(一七六七)には明智光秀を主人公にした近松半二による浄瑠璃『三日太平記』が上演された。さらに近松半二は、安永九年(一七八〇)に『仮名写安土問答』を書いた。ここでは、小田春長(織田信長)による将軍家への謀叛を阻止するために謀反人となる光秀が描かれた。そして、近松半二による光秀劇を受け継ぎ、書かれた光秀物の集大成が寛政一一年(一七九九)初演『絵本大功記』である。これらの作品が上方で上演されたものであることは注意したい。
こうして明智光秀は一種の悲劇的なヒーローとして人びとの間で認知されるようになっていく。
一八世紀後半から一九世紀にかけて、芸能を通して光秀イメージが大きく変わっていったのである。明田利右衛門が明智光秀の首塚を「末裔」として引き取ることを拒まなかった理由のひとつはここにあるだろう。首塚もまた、周囲から忌避されるようなものではく、ヒーローゆかりの聖地として集客にも結びつく。明智光秀首塚が、梅宮町の人びとにとって重要な史蹟となりえたのが一九世紀だったのである。
「明智は単純な裏切り者ではなく、むしろ正義漢、あるいは少なくとも教養ある保守主義者だったので、第六天魔王とも称される信長の過激さにはついていけなかった」という見立ては、戦後にも司馬遼太郎が「国盗り物語」でこのイメージを固定させ、その構図は「信長の忍び」に受け継がれていくのだけど、それを考えた上方の戯作者の「創作力(嘘つき力)」に拍手を!!