漫画版「ドラえもん のび太の宇宙開拓史」の終盤の展開が完璧過ぎる
http://mubou.seesaa.net/article/441461190.html
が人気で、ブクマも200越え。
非常になつかしく、また若干追加したいこともあるのでひとことふたこと。箇条書き風に
(ネタばれします)
映画ドラえもん のび太の宇宙開拓史【映画ドラえもん30周年記念・期間限定生産商品】 [DVD]
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・最後の戦いのときに、味方全キャラに役どころ、役に立つシーンを与えてあげないとかわいそうだよなあ、というのが個人的な好みであり、それを映画ドラは非常に満足させてくれるですね。
というか、映画ドラの影響で「最後は全員にちょっとでも見せ場をあげてくれ」と思うようになった、というべきか。
藤子・F・不二雄の系譜を継ぎしものである、椎名高志の「GS美神」アシュタロス編で、主人公グループとは別の「その他のGS」たちを一体にして、全員の能力を総合して別地点での敵役サブボスを倒すところとかは秀逸だった。
あと、プロレススターウォーズで、日本軍に入れるとけっこう扱いに困る長州力ら維新軍を「マサ斎藤さんがあぶないので、俺たちはアメリカに行く!」といって別行動を取らせたのは秀逸でした。
さてこのへんで、だいぶ読み手の知らない例を挙げているという自覚はある(笑)
あと、「ぼくも…」と必死で岩を投げようとしている人は、一度へまというか裏切りによって敵側を有利にさせた子。
この人を放置せずにフォローの場面を与えるところが、非常に芸が細かい。共感性羞恥の人も安心…?
・自分が「あれ?原作とアニメが違う」と思って大いに違和感を抱き、そのうえでなぜだろう?と考えたのがこの宇宙開拓史なので、改変の場面は鮮明に覚えている。
ひとつは、リンク先にも画像で出ているように、まず伏線としてドラえもんが「ひらりマントと間違えて、あわててタイムフロシキをポケットから出す」→「そのタイムフロシキが風に乗って飛ばされ、星を爆破することができる時限性の機械のカウントダウンを逆流させてことなきを得る」でした。
(裏返しだったら、逆にカウントダウンを速めていたよな…)
ここでタイムフロシキをさりげなく出す藤子・F・不二雄先生の「伏線力」は本当にすごいもので(その系譜を受け継いでいると勝手に認定しているのが、これもF先生の影響の色濃い石黒正数氏だ)……で、あるが、アニメ版では、「風に乗って偶然」ではなく、ゲストキャラの主人公格であるロップル君が、以前みていたこのタイムフロシキの性質をちゃんと覚えていて、意図的にこの機械にかける…という展開でした。
これは、さすがに最後の対決の際に、それも善が勝つか悪が勝つかというときに「結果を決めたのは偶然でした」となるのはやや興ざめかと思い、自分はこの改変を子供心に支持した。
だけんども、今おとなになって思うと、こういう最後の対決、アクションシーンで、最後の勝敗はまったく両者の人知やや能力、努力の及ぶところではない偶然によって決定した・・・・・・・・・というオチも、なにか皮肉が感じられて悪くないかな、と思ったりもする。
このへんは、若き創作者がすこし掘り起こして、発展させてほしいところ。
・もうひとつの改変が、のび太とギラーミンの対決が一騎打ちをばっさりカットし、乱戦の中でロップル君の構えたショック銃に、名人ガンマンのび太が手を添えてサポート、ギラーミンを撃ってやっつける…というものでした。
これは、単純に「尺が足りなかった」のかな?と今では思う。
同時に、ロップル君がギラーミンをやっつけないと、親父の仇(という設定なのである)を第三者がやっつけるのを見ているだけだった、というところから映画版のようになったのかなあとも思う。
名人ガンマンなら、手を添えて素人に撃たせるより、自分で撃ったほうが確実にあたるはず(笑)なので、そういう理由は間違いなくあったと思う。
このへんはどうだろうね…自分はわからなくもないが、できれば原作通りにしてほしかった、と思う。
あなたもシナリオライターになったつもりで「自分ならこうする」を考えてください。
そしてここからつづく…
・これは是非ではなく、余談。
のび太とギラーミンの決闘、リンク先から引用すると…
物語は言うに及ばないのび太とギラーミンの一騎打ちに突入していくわけなのですが、
ここで、お互いひと目で相手の実力を理解しているという描写も素晴らしいものの、なんといってもドラえもんたちの背後をさり気なく飛ばされていくタイムふろしき。この展開、少年向け漫画として完璧過ぎると思われませんか。
緊張感といい、のび太の「銃が並外れてうまい」という設定が活かされるカタルシスといい、強敵の描写といい、この一騎打ちシーンも数あるドラえもん大長編の中でも屈指の名シーンだと思います。やはり、どうせ戦うのなら有能な強敵と戦った方が盛り上がりますよね。
先方は、この一騎打ちの結果を書くのをたぶん意図的に避けているけど、当方はここからネタバレします(必然性あり)。
両方の銃が光ったあと、最初に倒れるのはのび太!
絶望するドラえもん一行。
だが…その数秒後?何かのセリフをいいながら(だったかな?記憶あいまいだ)ギラーミンがどうと倒れる。
のび太はむくりと起き上がり「あまりのこわさに、一瞬気が遠くなって…」そう、銃撃を当てたのはのび太くんだったが、そこはメンタルの弱いのび太君、勝手に気絶したのだった。
(これはのび太のヒーロー性を弱める効果もあっただろう)
自分はこれを読んだだいぶあとだったと思うが、復刻版の「まんが道」を読んだ。
そこでは、例によって手塚治虫の”悪行”が記されていて、F、Aのわかき両藤子先生をアシスタントで呼んだのに、「映画見に行こうか!」となった時の様子が記されている。お目付け役(監視要員)の編集者とともに、手塚氏が2人を連れて行ったのは1954年に制作された映画「ヴェラクルス」。全盛期を迎え、手塚も藤子も大好物だった西部劇です。
善玉クーパーと
悪玉ランカスターの対決が
最後のクライマックスとなります。
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そして映画を見たあと、締め切りギリギリでやきもきする編集者を前に余裕で、「じゃあ食事していこうか」と手塚先生、鬼畜の所業(笑)。肉が食べられないA先生だが、空気を読んで手塚先生のおごるステーキを必死で飲み込んだのだという。
いやいや、そんな余談はどうでもいい。まんが道はあくまでフィクションで、再構成もいろいろされていると思うけど、ともかく作中では手塚治虫が、この「ヴェラクルス」の決闘シーンをくわしく分析、わかき漫画家に語る。
※記憶による要約
手塚
「あそこはもちろん、善玉のクーパーが勝つと観客はみんな思っているよね!
しかし、ニヤリと悪玉のランカスターがまず笑う。そうすると観客は、あれ?クーパーが負けたのかな?とドキッとする。
だけどその直後に彼が倒れて、ああやっぱり正義が勝ったんだ!と観客はほっとし、喜ぶ。
決闘一つにもこんなふうな工夫ができるんだね!!僕たちも参考にしないと」
A先生こと満賀道雄は、自分たちがただ楽しんで、興奮してみていた作品を、一瞬で構造的に分析する手塚先生に感服した…という。
あとからこの場面の画像みつかる
「創作作品を分析的に見る」というスタンスを、個人的にも手塚先生のこの場面によって、具体的な形でおそわった、という自覚があるので印象深いのだ。
一対一の決闘シーンというのは、一種のお決まりシーンだから、
ここでの工夫は比較しやすい、ともいえる。
西部劇自体は衰退したが、その後も「決闘」には、勝敗のミスリードもふくめ、さまざまなバリエーションが描かれていったであろう。
だが、してみると…
藤子F先生の、トータル的にも終生の大傑作であった「のび太の宇宙開拓史」で最高に盛り上がる場面だった決闘シーンは、その30年前に藤子・F・不二雄先生が「漫画の神様」手塚治虫と映画をみて、食事しながら談論風発…という、輝くような「星の時間」を思い出し、「手塚先生、こんなことをあのレストランでおっしゃってたな…決闘で、まず読者をミスリードして驚かせる、僕なりのアイデアを出さないとな…」
と考えた、としたら、
なんとも雄大な大河ドラマではありませんか。
ヴェラクルスにまつわる過去記事をなんどか書いてました
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20141009/p4
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20151215/p5
この作品が発表された当時は、手塚治虫氏もご存命…というかバリバリ仕事してたころ(バリバリ仕事してない時期がないけどさ(笑))。
弟子もライバルも無名の若手も、やたらと作品をチェックしていた手塚治虫のこと、手塚山脈の一員である藤子・F・不二雄の人気作を読んでいないとは思いにくい。
たぶん、この場面も読んでいて、
ひょっとしたらレストランのあの夜を思い出したかもしれない。
そして、こうつぶやいたかもしれない。
「ぼくにも、描けるんだけどね。」
ぶち
こわしだ!!!
と黒手塚オチでおしまい。