この記事の重大性は、まずこちらを読んでもらって初めて分かる
■安政の大獄で「これは冤罪だ!」と声を上げた幕府官僚・木村敬蔵という男がいた http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20100804/p2
「全員無罪っ!こんなアホらしい裁判は無い」
この意見は一時、幕府の裁判実務者の中で大勢を占めかけたが、井伊直弼はそれに危機感を覚えて、幕府の司法グループを一斉に罷免、入れ替えるという強引な手法を取ります。しかし、木村は一向に平気。
↑この意見書とは「こんな裁きをしていたら、徳川の天下は終わります」という激烈なものだったという
元評定所留役・組頭
木村敬蔵−−
生没年も
不詳であり
その後の記録も
定かでないが
直弼の大獄
こそが
徳川家を滅ぼすと
ハッキリ言い切った
彼は
紛う事無く
風雲児たちの
一人なので
あった・・・
当時のブクマURLがなぜか変形してこっちからしかいけないけども、当時も反響が大きかった
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/gryphon/20100804%23p2
そして、コメント欄からの転載文ですが、こちらをお読みください。
noname 2016/02/10 04:22
古い記事(http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20100804)の話で恐縮ですが、「木村敬蔵」一件についてたまたま見つけたので少し調べてみました。「評定所」「大獄」「木村」などで検索すると、本トピックに言う評定所の木村敬蔵はどうも別名(本名?)木村勝教(又は勝敬)で、当該エピソードは手近な所だとNDL近代デジタルライブラリーの
徳富蘇峰『近世日本国民史』第42,pp.145-152
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228565
に見られる。詳しくは読んでませんが、「この度の吟味は、人間の皮をかぶり候者にては」「よって三十俵に相成り候心得にて」等おおむね一致した記述があります。井伊に上申した諫言の書簡については、蘇峰も「廉直の循吏」等手放しの評価。もしかすると本書が「風雲児」の種本の一つかも、とも思えます。
大獄後の経歴は「敬蔵」では引っかからない、が「勝教」だといくつか見つかる。「風雲児」では「定かでない」とするものの、実際には文久2年(1862)には復職して、勘定吟味役・関東郡代等を経て幕府最末期に勘定奉行に上りつめて退官しています。参考文献は『江戸幕府勘定所史料』(S61、吉川弘文館)。ちょこっと履歴が年表風に出ているだけですが。
「その後はわからない」としたのは漫画的演出(たしかに効果的かもしれない)かもしれず、「風雲児たち」の評価にはいささかも影響しないが、それと同様に、こうやって彼の情報を見つけてくださったのは本当にありがたい話であります。
これを元に、図書館レファレンスなどに依頼してもっと詳しいことが分かるかもしれないし、ウィキペディアに項目を立てることができるかもしれない。
【補足】コメント欄から追加
id:nakakzs 2016/02/10 17:56
あくまでざざっと調べたところでしかないので現時点では確証は持てませんが、
前のコメントと本文を参考にして「木村勝教」で検索してみると、
たしかに勘定奉行として幕府末期に「甲斐守」の「木村勝教」が見受けられますね。そのうちhttps://trc-adeac.trc.co.jp/Html/SystemRef/edbkg.html あたりでは
木村 敬蔵 勝教(きむら けいぞう かつのり)と記されています。安政の大獄が1858年、桜田門外の変が1860年、そして当人物の勘定奉行就任が1864年、もし同一人物とすればこの間に何があったのかが鍵になりそうな感じです。
とにかく、わたし的には”又一”週刊文春の、ベッキーと甘利と清原と育休議員のスクープをすべて合わせたのを超える「大スクープ」でした。
またこれを材料に、どこかのだれかが調べてもらえればありがたい。