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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「風雲児たち」最新刊補遺。忠臣蔵以来の、江戸の<実戦>が生んだ悲喜劇。

多くの人に読んでいただき感謝感謝の「風雲児たち 大獄&桜田門外篇」(※勝手なシリーズ認定ですが)の紹介記事。

風雲児たち 幕末編 21 (SPコミックス)

風雲児たち 幕末編 21 (SPコミックス)

安政の大獄で「これは冤罪だ!」と声を上げた幕府官僚・木村敬蔵という男がいた
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20100804/p2
■万延元年のジャッカルたち…「風雲児たち」で、桜田門外の変がカウントダウン。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120105/p2
■万延元年の「テロルの決算」〜桜田門外の変描く「風雲児たち」21巻発売
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20121128/p1
(おまけ)■かなり以前に書いたみなもと太郎風雲児たち」紹介文を再録
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20081028#p2

最新刊が発売されて、あとは各自で読んでいただくのが一番ですが、最後にもう一回だけ?読み直して気づいたことなどの紹介を。
 
この21巻でとくに興味深かったのは、良くも悪くも徳川幕府が「平和」を構築した江戸時代において、襲撃するほう守るほうとも白刃の下で切り結ぶのは初の体験だったということ。どちらもイデオロギーや教えられた伝統、そして幕末に千葉道場などを舞台にルネッサンスを遂げた剣術の技術で武装しているはずだが、それでも初の<実戦>にはさまざまな想定外の事態が・・・

単行本にはかき下ろしあり。、緊急時、雪の中にはだしで出た人は。

自分もたまたま当時の雑誌があったから比較できたのだが、雑誌では襲撃犯の迎撃・逮捕には至らなかったとはいえ、襲撃直後に井伊藩邸(現場からほんの数百メートル)から大挙して武装藩士が救援にきたことになっている。
単行本では新資料で調べなおしたか、知っていても雑誌ページの都合で省略したのか(そういうパターンも結構多いんだ)、よりリアルに「まず足袋はだしに、おっとり刀で救援に駆けつけた藩士たちがいた。その後、ちゃんと武装を終えて救援に駆けつけた本隊があった」という二段階があったという描写になっています。

そしてうなったのは、結局間にわなかった第一陣は「足も冷たくなり、とりあえず出直すほかなかった」・・・というのだよ。
大急ぎで、わらじも雪駄も履かずに飛び出た忠義の藩士たちも「雪で足が冷える」というリアリズムにはかなわない・・・。

「二刀流」って実戦的だったのか?彦根藩士に勇者あり

この巻には「逃げ出したり足がすくむ藩士も多かった中、最後まで井伊直弼の駕籠をまもって奮戦したのが『井伊家きっての剣豪 二刀流の河西忠左衛門』」と記述されているほか、もうひとり「永田太郎兵衛」も二刀流で奮戦し、戦死した・・・とされている。
??
<二刀流>というと、なんか俗説・・・というか私がどこかで聞いたイメージでは、「たしかに宮本武蔵は二刀流で強かった!だけどそれは、怪物的な膂力を誇った武蔵一人のための、ワンアンドオンリーなテクニック。これは一般化できるたぐいの技術体系ではなく、ために二天一流はさかえなかった。剣道でも、ルール違反ではないのに二刀流をやる人がほとんどおらず、全日本大会にも近年ひとりがようやく出場できたのみ。二刀流の(例外的なフィジカル・モンスターを除いての)非実戦性は明らか」・・・という話だったんだが。
なぜ彦根に、2人も「二刀流の強豪」がいたのだろう?
それなりに使おうと思えば使える技術なのか?などなど・・・詳しい人に教えていただきたいのだが。
【追記】コメント欄より

こういう論文を見つけました。
http://www1.ocn.ne.jp/~masaki-o/sotsuron.html
伊庭八郎あたりでも有名な心形刀流にも二刀の技法があったのは見逃せないところで。
まあ彦根に二刀流があったかどうか以前に、当時の剣術有望な者は決まって江戸に出て当時隆盛の流派を学んだものですから(坂本龍馬桂小五郎武市半平太などなど)、江戸で隆盛の伊庭道場で二刀を教えていれば、これは学んでいてもおかしくないかもしれません。
ちなみにこの論文の後半には「木村政彦はなぜ〜」で出てきた大日本武徳会も出てまいります。ご参考までに。
fullkichi1964 2012/12/16 05:07

万延元年の「プライベート・ライアン」。アパム!アパム!弾もってこい!

「逃げたサムライ」の末は・・・・・・

この通り。

この前の記事で「最大限の慈悲で切腹させてやる」と書いたが、それは記憶違いで「なぜ(捕まる前に)腹を切っておかなかった。もはや(名誉の刑罰としての)切腹もかなわぬ(=重罪人として打ち首)ぞ」だったのだ・・・・・・。
前も書いたが、この立場にいたとき、自分がそうはならなかった、と断言する気にはなれない。しかし同時に、奮戦して死んだ藩士は「逃げても不名誉の刑死とお家断絶」が怖くて刀を抜いたのかもしれない。それが怖くて逃げたくても逃げ出せない、という意識もわかる(旧日本軍だってそれがあったし、大抵の武装組織はそういう恐怖心で縛っているものだ)。逃亡者も戦死者も「何を怖がるかの、一瞬の判断の違い」だったのかもしれない。
かといって、実際に奮戦して腕まで切り落とされた人間が、他の人間をこう批判するのを止められるだろうか?

そして彦根藩は「軽傷者も、手当てを済ませたあと牢に入れよ。死や重傷に至るまで奮戦しないだけでも臆病者の証拠だ」と決定する・・・

歴史の「評価」が、歴史を動かす・・・<忠臣蔵伝説>が各藩を呪縛した


引用したこのコマにあるように、忠臣蔵(赤穂事件)という「前例」が、民主主義的な監視制約をまったく受けないはずのお武家様の藩組織を制約した、という逆説。
もともと儒学朱子学は・・・「歴史の中でどう振る舞うのがカコイイのか」をまなぶ学問であり、そしてその歴史の評価こそがキリスト教イスラム教の天国、仏教の極楽・・・いや解脱に匹敵するような”救済”である。
今の政治家でも、中曽根康弘が「政治家はすべて『歴史法廷』の被告である」と語り、

自省録

自省録

斎藤隆夫

褒貶毀誉は世評に委す 請う百年青史の上を看る事を
(第七十五帝国議会去感)
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20121111/p4

と詠んだように、歴史の評価を意識する姿勢は確実にある。
ブッシュ大統領は「歴史?書かれる頃には俺たちみんな死んでるさ」という、これはこれで底知れぬ怪物的ニヒリズムの名言を残している。

攻撃計画(Plan of Attack)―ブッシュのイラク戦争

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ブッシュ [DVD]

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が、とまれ「忠臣蔵」の浪士たちを粗略に扱った藩はずっと大名家の中でさげすまれた、という自分たちの評価、歴史観が自分たちを縛るという皮肉さ。
そして「折り返し点」の桜田門外の変から7年後、日本最大の武力を持つ将軍家は、水戸学の総本山で生まれた15代・徳川慶喜の「尊王」意識(=歴史評価を恐れる心)の前に、自縄自縛となっていく・・・。

思想はときどき、こんないたずらを歴史に仕掛ける。