10月4日まで茨城県土浦市で展示されている、こいいう催しあがる
http://www.city.tsuchiura.lg.jp/page/page007859.html
特別公開「土屋家の刀剣」を開催しています
土浦藩土屋家刀剣の中から、国宝・重要文化財を公開しています土屋家の祖である土屋右衛門尉昌次が所持していた刀。土屋家に代々相伝されていた。
これは平成23年に展示されたときの市長会見の記録。
土屋家刀剣の中には、国宝が1口、重要文化財が4口含まれております。これらの刀剣を毎年、土浦全国花火競技大会に合わせて公開しております。
また、この度は新たに加わった土屋家刀剣「影法師(かげぼうし)」を初公開いたします。この刀は、土浦藩土屋家の祖先にあたる土屋右衛門尉昌次が所持していたもので、土浦藩主に代々相伝されてきたものです。刀を手で持つ部分である茎に「影法師」「右衛門尉之持」と銘が彫られていることから、「影法師」の刀と呼ばれています。「影法師」の意味は、「影武者」を指すとの説があります。土屋右衛門尉昌次は、甲斐武田24将の一人で、武田信玄の近習を務めていたことから「影武者」との深い関係が想像されます。
今はゲームを通じてブームになっているようですが、自分は正直、日本刀関係には見る目がない。たしかに刃紋を見ればきれいだなあ、とは感じることもありますが…
しかし、この「影法師」に関するエピソード?というか謎がすごい。
土浦市のpdfに、資料があるので見てみよう。
https://www.city.tsuchiura.lg.jp/data/doc/1317779785_doc_147_0.pdf
マジか……?
しかし、ふつうは柄の部分に埋め込まれている「中茎(なかご)」部分に「影法師」という異様な言葉が刻まれている名刀を見ると、うーんと唸らざるを得ない。
土屋家の開祖、土屋右衛門尉昌次は長篠の合戦で戦死
それを継いだ弟は、次々重臣が離反していった武田勝頼に最後まで寄り添い、死をともにした。
http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/katatekiri.k/katatekiri.k.html
土屋惣蔵昌恒は殿軍を引受け、道幅の最も狭まったところで織田軍を待ちうけた。やがて敵の先鋒が土煙を上げて迫ると、土屋惣蔵は岩角の藤蔓を片手で掴み、太刀を片手で振るって寄せ来る敵を片っ端から斬り伏せ、崖底の日川に蹴落とした。川の水は三日間赤く染まったという。まさに鬼神の如き奮戦であり、千人斬りの異名をもって恐れられたのも頷けるというものである。
http://bushoojapan.com/book/comictaka/2015/06/07/51576?km_saf_try_cnt=1
これにより、武田勝頼の自害する時間を稼いだという。
なんでその人の子孫が茨城県土浦の大名かといえば、徳川家康が武勇の誉れたる武田家遺臣をこぞって取り立てたからですね。だから譜代扱いだし、「先祖は最後まで武田勝頼に忠義を尽くし闘った」はマイナスどころかボーナスポイント。大名にまでなった、と。
しかし、本題に戻るが、どうなのかね。
・土屋家は、影武者の育成担当であり、その印としての「影法師」の銘。
・戦場で影武者が討たれた時、それが影武者であることを確認するため、普段は見えない日本刀の茎部分に「影法師」と彫っていた…
どちらにしても、黒澤明「影武者」や隆慶一郎「影武者徳川家康」、或いは「信長協奏曲」などで、あまりにも影武者やらそっくりさんは伝奇ロマン的な荒唐無稽な彩を備えていて、本当に史実的に「影武者」が登場するとちょっとたじろぐ。
だけど、よく考えたら昔は写真でじっくり見る、とかそういう習慣もないわけだし、貴人は貴人相応に顔を凝視されることもないのだろうし、「そんなに見分けがつかねえほど、そっくりってことはねえだろうよ」と現代人の感覚で思うよりは、影武者って効果的だったのかもしれないね。
ともあれ、そんな伝奇的な謎を感じさせる「影法師」と刻まれた日本刀が、今土浦市で公開されているということだ。
ちなみにこの博物館から車で10分ぐらいのところに
という施設もある。