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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「明治維新功績ランキング」の中で、岩倉具視はどこに位置付けられるのか(「風雲児たち」を軸に)

この前、こんな記事を書きました。

明治維新で、江藤新平の代役だけは誰も務まらない」…彼が「フランスの法制度を学べ」とうたう漢詩がすごい - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150405/p2

ここで紹介した本の著者が語った
「維新史において、西郷、大久保、木戸の代役を想定することは困難ではない。しかし、江藤新平だけはふさわしい代役が見あたらない。」

という言葉がおもしろく、自分も明治維新において「この人は功績がワンアンドオンリーか」「あえてランキングを作るとしたら貢献度何位か」「この人がいなくても”代役”がいたか」
を考えるようになりました。

そこで気になるのが、岩倉具視なんです。
というのは、私の幕末史知識のかなりの供給源になっている、みなもと太郎の「風雲児たち」では、かなりのキーパーソンとして岩倉具視が登場し続けているからですね。


あるときは攘夷や尊王をおおいに扇動し、幕府の大敵となる。
しかし和宮降嫁では、公武一和に理解を示す人間として、その実現に尽力する。
そのすべてに裏がある……


と、オーベルシュタインにも匹敵するような宮廷陰謀家としての実力を存分に発揮する…のだが、教科書ではそんなに大きく扱われない(笑)
これは当然で「陰謀を張り巡らせた」は学校教育の文脈ではなんとも言いようがない話だからね(笑)
それに陰謀というのは証言や証拠がそう残るもんじゃない。「ムー」ライターの腕の見せ所だが、最終的な結果から逆算して「陰謀」を定義する必要がある。だからこそ、へんてこなトンデモ陰謀論や、差別まじりのユダヤ財閥だシオン議定書だ、という話になる。

岩倉具視の陰謀は、どこまで幕末を動かしたか?」
びしっと確定させる方法はないだろうし、いろいろな論者の見立てを総合していくのしかないだろうな。


ただ、どんなにがんばっても大河ドラマや歴史漫画の主役をはれる人気は出てこないだろう。「風雲児たち」の扱いは、破格と言ってもいいぐらいだ。

で、実は当方、あの岩倉の「幕末のオーベルシュタイン」的なクローズアップの仕方は、「みなもと太郎氏が京都出身だから」という身びいきが原因なんじゃないか、というみもふたもない疑念(笑)を持っている。

いやー、あんがい、歴史を描くフィクション作家、ノンフィクション作家の「地元びいき」ってバカにできない要素ですよ(笑)。藤沢周平司馬遼太郎海音寺潮五郎……


「京都出身のぼくとしては、純粋な京都育ちの人間を重要人物として押したい」、となると、幕末においてこれは結構岩倉具視一択になるしかない、と思われ。


ただ、そこはベテランみなもと氏は、クローズアップするために説得力を増す演出をしています。それは、陰謀粛清劇である「安政の大獄」を、その時は目立たず、元からの身分の低さもあってやり過ごした上で、桜田門外の変後に、大物として浮上する。そのとき、安政の大獄で実務を担当した長野主膳に「こいつが真の黒幕だった!」「こいつを見逃さず、捕まえていれば…」と敗北を実感させる、というところだった。
 

「二人の陰謀家の、陰謀対決」という戦略的なドラマは見ごたえがありました。

実際に「岩倉具視安政の大獄でターゲットになり、歴史からその時点で消えていたら」は、興味深くリアリティもあるIFとなるでしょう。



あとひとつは、岩倉具視のパーソナリティを、こう説明しているところだ。
・江戸時代、京都の公家は常にびんぼうだった。
・その副業の一つが、公家の邸宅は町奉行などの権限が及ばないことを利用し、そこを「賭場」として任侠の徒に貸すことだった。そこから派生してカルタの絵描きも副業。
・自然、任侠の徒に影響を受けるようになり…


「十二、三歳の頃にはもう ヘタなヤクザもはだしで逃げる 立派な貴族が誕生していた」
というネームは、この作品の傑作台詞のひとつだ(笑)
岩倉具視が頭角をあらわしたのは、とにかく逃げる、様子見することの多い貴族の中で「クソ度胸」という面で頭角をあらわしたことに、たしかにあるだろう。

NHK「歴史発見」15巻より、同じく京都人の高坂正堯が語る

NHK 歴史発見〈15〉

NHK 歴史発見〈15〉

ここに「岩倉具視と王政復古」という章があり、番組で発言した高坂正堯の言葉が文章になっている。ありがたい貴重な記録だ。

高坂発言を記録。

薩摩・長州対幕府という見方で見ますと、やはり力関係や理念の正当性といったことになりますね。それも大事ですが、同時に、政治には駆け引き、技術という側面がありまして、その違った側面も意外に大事だと思うのです。

それまで幕府はすべてを一任されてやってきました。ところが、幕府がそれまでやったことのないような、勅許を求めるということをやった。(略)これはチャンスだ、揺さぶってやろうと考え、簡単に勅許を与えないぞと考えるようにになった。(略)…これは策略です、本来、外交を国内政治の道具にしてはいけないのですが、そのいけないことを岩倉はやったのです。(略)とんでもないことで、考えようによっては岩倉は悪いやつですよ。

柔道でいえば、相手から力が入るから、返し技が効くわけでしょう。政治の技術もそれと同じです。このときの岩倉の、幕府と協力しながら相手に譲らせ、相手を弱め、朝廷の立場を強めていくというのは、まさに政治手腕として決定的な動きでした。

しかも、そのリズムがみごとですね。「ここは仲よういきましょう」「ここは戦いの時期です」というあたりの見きわめは、じつにみごとです。

と、京都人的な連帯でべた褒めもしているMK…マサタカ・コーサカですが、冷静にその限界を指摘してもいる。

技術としての政治の限界というもので、岩倉からすれば、武力を持たない朝廷が復権するためにはこういう方法しかないということで、雄藩と協力しながら朝廷を強くしようとしているわけでしょう。そのことは、みんなわかっているはずだと思っているのです。わかっているはずと思うところが、政治の技術に長けた人の欠点でして、人間が暴走するということを忘れているのです。


だれか、「高坂正堯外交名言集」というのを作ってほしい。