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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

一本の映画が、そのまま「ジャンル」になった…四方田犬彦「『七人の侍』と現代」

twitterで書いたものをまとめます
(指摘頂いた人名などの誤字は修正。)

gryphonjapan@gryphonjapan

ツイートで本の感想書いて、あとでまとめるシリーズ
四方田犬彦「『七人の侍』と現代」(岩波新書
:「七人の侍」はさまざまに神話化され、そのせいで正体が見えないことが多い。著者がその真実を洗いなおすのだが、外国経験も多い彼が「いかにクロサワが世界で愛されたか」を語る挿話が面白い。
 
:黒澤が死んだ日、キューバ映画研究所に留学してた著者は所長から「どうか気を落ち着けて聞いてくれ。貴国の偉大なクロサワが先ほどなくなった」と厳粛に伝えられたという。カストロも追悼声明を出し、街角で「クロサワ!」「ヨジンボー!」と声を掛けられた。
逆に、筆者のほうが戸惑ったとか。
キューバが特にクロサワ映画を愛好し、七人の侍や用心棒を自分の国や或いはカストロゲバラの革命になぞらえてる…正確には七人の侍座頭市が双璧(笑)、ちう伝説は聞いていたが、詳しく確認できた。キューバは世界に先駆けて1970年代初頭、黒澤映画の全フィルムを購入し所蔵してたという。

 
:筆者はそもそも椿三十郎を見てはチャンバラをするような子どもだったが「乱」「夢」「8月の狂詩曲」などに大いなる違和感を感じ距離を取ったという。そういう状態で外国のクロサワ熱を受け止めるから、戸惑う一方で再発見をできたようだ。黒澤の影は、キューバだけにあるのではない。例えばパレスチナの俳優は開口一番「どですかでんを知っているか」と筆者に聞いてきた。彼の主演映画「ハイファ」はガザの難民キャンプが舞台で、戦争の衝撃で精神を病み「イスラエルを駆逐するアラブ連合軍の兵士」という妄想のもと街をさまよう男の物語。この役は、さに「どですかでん」がモデルだった。
 
:その一方でユーゴでは、「セルビアクロアチアボスニアの正義がせめぎあい、もはや誰も真実はわからない…『ラショーモン』ですよ」と言われる。流行歌の歌詞は「ぼくは彼女が好きだけど、彼女はクロサワが好き…」 そして、黒澤にインタビューもしたセルビア人の映画評論家・監督は、「書きかけの黒澤論の原稿も、黒澤のサイン入り色紙もすべてアパートに置き去りにしてサラエヴォから避難した」という…書きかけの原稿を持っていけなかった、という具体的な記述に、難民になるとはこういうことなのか、とちょっと胸が痛む。…ただ…そこからの発言がさらに皮肉なのだ。
 
:彼はセルビア系。そしてこういう。「いいかい、コソボに出向いてアルバニア人の暴力からセルビアの農民を守った将軍が、どうしてハーグの国際司法裁判所で戦犯にならなければいけないんだ。彼は『七人の侍』で志村喬が演じた勘兵衛だよ。」…そう、今では戦犯の彼らは、セルビア視線で見ると侍なのだ!
筆者は、自分は第三者だから論評は避ける、としつつも「たしかに旧ユーゴは野武士に襲われた村のようだった。だが、アルバニア人ボスニア人も同じ被害者では」と感じつつその感想を飲み込む。
しかし、そんな経験で「黒澤映画は世界で今も『現役』のフィルムなのだ」と感じ、この本を書き始めた…
  
:この「世界で今なお愛される…、というか現役の映画として人々が受け止め、自己の経験と重ね合わせているクロサワ映画」のエピソードだけで、日本すげー的な本のネタにはなりそうである(笑)。ただ当然、四方田氏はそういうことを描くためにこれかいてるわけではない。
 
:ここから「黒澤映画全般を語ると拡散してしまうので七人の侍に絞る」、として作品のあれこれを語る(そうはいいつつ他作品への言及多いけど)。
この作品の「創作秘話」は何度も語られているし漫画にもなったしで面白さはある意味定番の面白さなのだが、定番を定番として楽しむのも悪くない。
  

・「北が山、南に川…」みたいな理想のロケ地無いので七ヶ所でロケ+オープンセット
・制作費は予定の3倍、製作期間は4倍
・何度も撮影中止寸前に
・「水車小屋の焼け方が気に入らない」と3度撮り直し
・矢が実際に俳優に刺さる事故発生
・「創造のためには死者も仕方ない」と監督断言。

:この時点で、いろいろと狂気だ(笑)
失敗作も成功作も含めて、「超大作映画を作る際の悲喜劇」はひとつのジャンルといっていいようだ。詳しくはこちらをご覧ください。

天才監督、超名作を映画化!だが拘り強すぎ、予算も膨らみ〜「ホドロフスキーのDUNE」(浅羽通明漫談より) - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20141226/p4


さて、逐条的に紹介してもアレなので、このへんで自分的な興味のところだけを取り上げる。四方田氏は自分的に一番興味があるテーマを、第2章で語ってくれた。タイトルを写そう。
「映画ジャンルと化した『七人の侍』」
そう、拙ブログを読んでもらうとわかるが、自分は「創作系譜論」 と銘打ち、一つのエポックメイキング的な作品がパクられ、オマージュされ、そういう中でひとつの「ジャンル」になってく系譜を追うのが大好き。いま話題の(笑)岡田斗司夫氏は「イタダキシルクロード」と読んでいたっけ。
「ゾンビ」や「ブラックジャック」も好例だが、七人の侍はまさにそれ。
一つの作品からパターンが踏襲されて、もはやジャンルになった作品の例をあげてください、となれば確実に五本の指に入るよね、「七人の侍」は。
四方田氏は、他に「或る夜の出来事」「グランド・ホテル」「シェーン」などを挙げている。なるほどね……。
  
:で、荒野の七人とか黄金の七人とか、御存知の作品のほか、アジアに広がったこの種の作品を、詳しい四方田氏は次々挙げていく。少林サッカーグエムル、もこの系譜だという。また侍の「キャラクター分け」も、やや哲学的な表現だが言及している。どーでもいいが「七人の侍はキャラ重複ある」という説がございましてな(笑)。それを整理すると戦隊やガッチャマンになるとかならないとか・・・ま、この話はどうでもいいか。
それより驚いたのは、お堅い映画評論と思ったのだが偶然か必然か、七人の侍を「最も着実に踏襲しているのは…アニメーションなのである」と。
この部分は全部写してもいられないが、興味を呼ぶところでしょうから画像で紹介しよう。セーラームーンのほか、2004年に放映されたTVアニメ「サムライ7」のことに言及されている。「一片のナショナリズムも存在していない」が特徴とか。

 
:ということで、「ひとつの作品が、類型となり、ジャンルになる」という話題を正面から語ってくれたのが面白かった。
もちろん、「七人の侍」話では有名な「公開当時は自衛隊再軍備論議とひっかけた議論が横行した」や「そもそも当時(戦国時代)あんな弱い農村があったか?」問題など・・・或いは落ち武者狩り、「百姓のずるさ」、武芸者伝に絡む創作秘話、西部劇との関係、殺陣のあり方など主要な論点が抑えられていて、手軽に学べる、という部分も多い。
ちょっと笑えた挿話を・・・
 
「ロケ地で撮影中、日本社会党の書記長である和田博雄の一行が見学に来たことがあった。そのとき秘書の女性が、野武士にも野武士の立場があるのではないかと、物語の構想に疑問を投げかけたのだという。黒澤明は激怒した」(P160)
 
…いや……作品によっては、悪くない視点だが…(笑)
 
逆に筆者の四方田氏が、晩年の黒澤映画「八月の狂詩曲」に抱いた批判もある。

1990年代の物語であるにもかかわらず、幼い子供がだしぬけにヒーローとしてのジョン・ウェインの名前を口にし、シューベルトの野ばらの旋律が流れる…監督本人のノスタルジアではあっても、日本の現実からは全く乖離…」
「悪い作品ではない。正確にいうなら勉強不足の作品なのだ・・・制作サイドの誰かが・・・勇気ある進言をしなかったのか。勇気ある進言者が側近に存在していないとすれば、黒澤明は『乱』の主人公よりもさらに不幸で孤独な場所に立たされているのかもしれない」

 
この本は、そんな批判的な感想を晩年の作品に持った著者が、「再度」黒澤作品に正面から取り組んだものだった。
作品の評価それよりも、一名作の周辺を知るエピソード集や、その広がりというところに自分は注目したが、そういう面で十分面白かったと思います。
(了)

『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書)

『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書)

日本映画を代表する名作として、幾重にも栄光の神話に包まれてきた黒澤明の『七人の侍』。しかし世界のいたるところで、いまなお現代的なテーマとして受容され、その影響を受けた作品の発表が続く。制作過程や当時の時代状況などを丹念に考察し、映画史における意義、黒澤が込めた意図など、作品の魅力を改めて読み解く。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
四方田/犬彦
1953年西宮市に生まれる。東京大学人文系大学院博士課程修了。専攻は比較文学比較文化コロンビア大学ボローニャ大学、テルアヴィヴ大学などで客員研究員・教授を転々とし、現在は明治学院大学教授として映画史の教鞭を執る(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)