上の「DODA」CMの話で、「著作権は、原作の世界観のコントロール権でもある。それがあればできるし、著作権が切れれば世界観も自由になる」という話から、この過去の記事を紹介しました。
■新作のホームズ映画に著作権者が怒る「ホームズとワトソンを、同性愛っぽく描くな!」http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120321/p3
「(略)……彼らが将来的作品で同性愛のテーマに触れた場合、映画化は撤回します。わたしは同性愛者に敵意を持っているわけではありませんが、シャーロック・ホームズの本の精神に忠実ではない人には敵意を抱きます」とアンドレアはコメント・・・
「ところが」、というべきか、「さらに」というべきか、最近こんな記事が出てきたのです。
「シャーロック」ファンがホームズとワトソンの同性愛シーンを要求! | ニュースウォーカー http://news.walkerplus.com/article/48979/
まずはじめに、個人的な「好み」「作品の好き嫌い」のレベルで申し上げるが(※この前提を置くことは必須です)、そういう展開は勘弁してほしい。まあ、シリーズは終わった…わけだが。いや、おわらないかな……
、ベネディクト・カンバーバッチ演じるシャーロック・ホームズと、マーティン・フリーマン演じるワトソンの同性愛シーンが見たいと思っている人が多いそうで、脚本の筋書きや、2人が絡み合っている絵などを描いてBBCに送ってくる視聴者があとを絶たないという。
「オー・マイ・ゴッドという感じで、一瞬にして白髪になるようなものが送られてくる。それは単に、ホームズとワトソンが手を繋いで公園に座っているとか、そういうものではない。それは言っておこう。非常に生々しい性描写もあって、2人がやっていることの半分だって僕は試そうとしたことすらない」と、同ドラマの共同制作者・脚本家のマーク・ゲイティスがオーストラリアのDNA誌に話している。
さて、この問題の先進国に目を向けてみよう……もちろん、極東の日出づる国のことです(笑)。…いや、実際の権利の問題とはもちろん別ですよ、フィクション内の登場人物の関係性の中に、それも同性間に、ファン、読み手が性愛の問題を持ち込むことについての先進国。ややこしいな。
さいきん、偶然togetterで読んで、ふうむと思ったのがこれでした。
”自重している腐女子は同性愛差別主義者”論 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/700558 @togetter_jpさんから
水銀@腐男子なーんつって♡ @suiginryuuka
(略)……話がごっちゃになりやすいのは、「BLとR18BL」を分けて考えてないからで、R18に関しては異性愛か同性愛かに関係なくゾーニングすれば良いし、それは「腐女子だけがやるべきで、ヘテロは自由に垂れ流して良い」という話ではないですよね。
R18ではない恋愛表現については現状、全てオープンです。テレビでも恋愛ドラマは子供が見る時間にも流れるし、それはこの社会全体で「特に問題はない」と認識されていることです。子供向けコンテンツにも恋愛要素はあります。
本来、異性愛表現の中で普通にオープンにされている「誰かを好きになる、恋をする、手を繋ぐ、キスやハグをする」などの表現が、同性愛表現だとなぜオープンにしてはいけないと言われるのか、の理由を、僕は「同性愛差別」しか思いつきません。
自重派腐女子が、自分達の自重の理由に「同性愛表現を不快に思う人が居るから」をあげることが多いですが、これはとても危険です。自分の首を締めます。
少なくとも自分が「ポリティカル・コレクトネス」の立場”だけ”で見るなら……この主張のどこにも瑕疵は見つからない。正論、と言わざるを得ないと思う。
上の「SHERLOCK」話も、ドラマの共同制作者・脚本家のマーク・ゲイティスが展開希望の手紙を読んで「オー・マイ・ゴッド」「一瞬にして白髪になる」というのは、「非常に生々しい性描写」だからショックを受けている、と読める。この際ややこしいので、その性描写の是非は置き、そっちは除いて、一般的な恋愛描写だけに限定しよう。
その際もおいて、上togetterのように「普通の異性愛表現で普通にオープンな描写はそもまま同性愛表現でもオープンに描写されるべきであり、それを妨げるようでは差別偏見である」ゆーのは正しい。少なくとも脳内ディベートで、それに反論するすべはない。
唯一留保するなら、上にあるように『「好み」としては、そういう展開は好みではない』とは言っていいのではないか、という点です。これについては
■差別でもDisでもなく、純粋に「私は嫌いだ」と言う権利…マドンナのあじさい騒動で考える。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110918/p2
で書いているので繰り返しません。
そしてその話を発展させるとだ……
漫画・小説内の登場人物で、ファンが勝手に恋愛関係を想像するのも、おそらく異性間だろうと同性間だろうと『自由』なのだろう。著作権者は権利の範囲でコントロールできるとしても。
という原則を、少し確認せにゃならん。
自分の80年代の記憶を無理やりがんばって掘り起こすと、作り手側がそういう問題に対して批判的に表明した例として、金字塔的存在(というのか、こういうの?)が2つあったと記憶している。某ファンロードのおかげで、縁遠いこちらのほうにもそんな噂が伝わっていたのだからすごい。
ひとつは、「キャプテン翼」のファンのパロディに関して担当編集が語った言葉
原文的にはこんな感じらしい
少年ジャンプ1987年9号・編集後記
「きゃぷつば本のブームはスゴイ。そして中身もものすごい。コミケを席巻するキャプつば本の約8割はポルノまがい。あまりエゲツないのは目をおおいたくなります。担当として。日向や若島津だって怒ってます『おれ達はそんな変態じゃねーぞ』って。陽一先生もかわいそう。みなさんこれ以上キャラを傷つけないでください」
もひとつは、田中芳樹氏本人が自作(銀英伝)のパロディについて語った言葉。
ComicBox1988年11月号P53
───同性愛趣味というのは、女の子のファンの間で大きな影響力がありますね。
田中 その様ですね。はっきり言っちゃうと、男性が女性を暴行する様な場面だったら嫌悪感を示す様な人が、何で男同士だったら耽美だと受け取るのか判らないね。それは、男同士ってことは女性は絶対被害者にならずにすむから、自分だけ安全な所にいてセックスをおもちゃにしてるんじゃないかと思うことがあります。自覚があってやっている訳じゃないんだろうけど、自分の作ったキャラクターを同姓同士のポルノに使われて。自分の子供を強制的にポルノに主演させられて喜ぶ親がいると思っているのでしょうか。著作権どうのこうのというのは非常にイヤなんだけど、少なくとも原作者の所に郵送するなよ、と言いたい(笑)。
…あー。あらためて確認すると、どっちも「性表現」「暴行するような場面」「ポルノ」的描写について怒りを表現している(にすぎない)のであったんだわ。そうなのかどうか分からないけど、ひょっとしたら一流の創作者として「性表現はちと別だが、ファンの同性キャラクター同士の恋愛関係の想像、パロディ描写…それそのものに、文句をいう筋合いはないんだ」という理解に、俺より先に到達していたのかもしれない。
だとしたら脱帽、たいしたものであります。
もっとも作者は、権利のあるところはもちろん、ないところにだって「この二人の関係は敵、ライバルだよ!!恋人じゃねーよ!」とか”正統解釈”を語ることはできるが。
それについては
夏目漱石「こころ」に関する学者の論争が、シャーロキアンの議論にくりそつで笑った…フィクションの設定論争いろいろについて -http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140530/p4
からもリンクを張ってある
■不謹慎ネタを否定されて原作者に逆ギレする連中は死ねばいいのに
http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20140527/1401180027
を、ひとつの例として提示してきます。
ポリティカル・コレクトはもともと実感から外れていく傾向があるものではあるが、まあ突き詰めていくと、たしかにこんな感じになっていくのかね。