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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

柳澤健「1964年のジャイアント馬場」”中間報告”2。世界を知った馬場が「金を貸す」ことで解放されるまで/20日にイベント

きのーの記事に続いて。

柳澤健「1964年のジャイアント馬場」後半戦の”中間報告”。ゴッチ、ミラーのロジャース殴打事件の深層
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140307/p1

昨日はゴッチだロジャースだだけだったが、こんどは馬場の話しますよ(笑)
馬場は前回記事でも語ったように、バディ・ロジャースに見込まれて、「ロジャース一座」に加わることになった。要は「俺を呼ぶなら敵役であいつも呼んでくれ」とロジャースからプロモーターに注文がくる、そういうレスラーになったってことです。
こんな類例もあるそうで…

タカハシ ‏@sand_lander 12月9日https://twitter.com/sand_lander/status/409893493759176704
今週の『1964年のジャイアント馬場』ではバディ・ロジャースが自分の配下の選手と各地で戦うように手配していた、というエピソードを紹介していた
90年代前半のWWEでもそれに似たような事をやろうとしていたグループがあった。ショーン、ディーゼル、レイザー、HHHらの通称クリックだ。

ふるきち ‏@fullkichi 2分
https://twitter.com/fullkichi/status/442095386845409281
@gryphonjapan @sand_lander ルー・テーズキラー・コワルスキーの関係もそんな感じです。Gスピリッツ24号62ページに明記。テーズはコワルスキーを弟のようにかわいがっており、一緒に連れて歩いて「挑戦」させまくっていたとのこと。

Gスピリッツ Vol.24 (タツミムック)

Gスピリッツ Vol.24 (タツミムック)

ロジャースはとにかく意識の高いレスラーであり、普通のレスラーがビールを飲んだりぐうぐう寝てたりする次回遠征地へのドライブ中「試合ではああやってもりあげよう、こういうギミックで沸かせよう…」と、とにかく熱心に考察していたのだといいます。


また、キャラクターの”類型”を作るというのも本当に難しく、成功したものは名誉でありますが「確かに見てくれはかっこいいが、それを鼻にかけてやりたいほうだいの悪党ナルシスト!」というキャラクター・レスラー自体が…先行者としてゴージャス・ジョージとかがいたそうですが…”ネイチャーボーイ”ロジャースが確立させたといってもいい。「ハンサムなレスラーがヒールを務める」手段の確立でもあるから、実に多くの人がその追随者となった。リック・フレアーもニック・ボックウィンクルも…

小泉悦次 ‏@joehookersr
https://twitter.com/joehookersr/status/412924331614691329/photo/1
これが、馬場さんの憧れのレスラー、バディ・ロジャースです。 pic.twitter.com/lKe0HBO5WE

ほほう…たしかに
ムカツク(笑)。


そんなロジャースがなぜ馬場を認めたのかというと、もちろんその巨体や運動神経もわることながら…
「ロジャースは、場所によっては悪党でなく、善玉としてメーンイベントに出なければならない。その場合、悪党ロジャースよりイメージの悪いレスラーがいればてっとりばやい。『2mを越す、旧敵国からやってきた薄気味悪い東洋人』がコーナーの反対側にいれば、自然にネイチャーボーイには声援が集まったから」だそうだ(笑)。


うむ、本当に梶原一騎の鉛筆で描く「プロレススーパースター列伝」猪木・馬場編は、柳澤ノンフィクションとの”着弾地”の違いから、正確な飛距離をつかませてくれるのう。


ここで馬場が非常に屈辱的な表情を見せるのは、それはそれでカジワラ流の「魂の真実」でありまするが、実際のところ馬場は、このアメリカで、しつらえた巨大なキモノを着て周囲の好機やブーイングを集めることがイヤだったわけではないらしい。そりゃそうだ、一人のパフォーマーとして、当時の世界最大の都で、最大の注目を集めるのだ。
まだ外貨も許可制で持ちだした、主権回復後10年そこそこの島国から来た若者がだぜ?
というかたしか、自分はあんまり読んでないけど
ジャイアント台風」では、このキモノパフォーマンスを力道山と一緒になってやって「日本男児ここにあり!と堂々と胸をはれ!!」とか言ってたよね(笑)。


作品によって同じシチュエーションの解釈を変えるのもどうかと思うが(笑)、それでもカジワラの「魂の真実」は的を射抜く…

「ハーイ ジャパンの化け物! ニューヨークのMSGでやる試合は ゼヒ 化け物が退治されるのを  見物に行ってやるぞ!!」

説明的すぎるセリフだ(笑)。普通の会話で「ニューヨークのMSGで」って地名までいうか?
まあそれはともかく、つまりは馬場こそが「196X年のレインメーカー」だったのだ。カネの雨を降らせる金の卵だったのだ。世界3000人ともいわれたプロレスラーみなが望んで、一握りしかその椅子に座れない地点に、20代で到達したのだ。


この時の心境、ギャラや地位は違うが、なんども紹介した「王拳聖」なら分かるところもあると思う。

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20060122/p2
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20060407/p2
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20070331/p4

・「靖国神社でプロレスをするとはゆるせん!と乗り込んできた中国の酔拳使い」
・しかしなぜかベビーフェイス人気が爆発。2年目は早くも善玉扱いで同神社の会場で拍手喝采
・3年めにはなぜか香港のジークンドーと対戦していた・・・

というね(笑)。右傾化なんだか左傾化なんだか。
 
俺がこれ、王の最初の登場の段階でいいこと言ってる(自賛)から、もう一度みんな読みなさい。…ってえらそうだな。

…プロレスがナショナリズムに関して−−少なくとも21世紀の日本において−−何がしかの意義があるとしたら、それはそのフェイク性そのものが、ナショナリズムを高揚させる一方で無効化、相対化、そしてパロディ化しているという一点にある。そしてそれは、同時に行われているのだ。

だって、森(※映画監督・森達也)氏が大いに怒り、懸念する「日本人レスラーvs中国人拳法家 イン靖国神社」で、本当にチャンコロやっつけろ、日本万歳、うちてしやまん、一億玉砕、八紘一宇・・・・となるだろうか。とてもそうは思えない。

つまり「プロレススーパースター列伝」的な心境って、王拳聖が「いまや中国は世界の大国、こんなスタイルも国辱もの!おれは酔拳だけで勝負するために日本に来たのに…」と靖国のアレを恥じている、みたいに現実味の無い話でありましょう。

偶然ながらDropkickニコニコチャンネルで、このテーマが取り上げられている。
春だからかな?無料で読める。

【フリー公開】プロレスに「靖国問題」を持ち込んだ破壊王橋本真也
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar474380


閑話休題、本題に戻る。
とまれ、馬場はそのときのプロレス人気や収入から見ると「松井よりイチローより先にアメリカで成功した」スポーツマンだし、プロレスがスポーツか?と反問されるなら「ケン・ワタナベやプリンセス・テンコーより先にアメリカで成功したパフォーマー」なのである。
どっちであっても、すごいことだ。


そして、ドルの雨が馬場の周辺に降ってくる…本人ではない(笑)
さてここからが面白い(張り扇をパンパン)。


膨大なドルをマネジャーと分配、力道山には「ちょっと貸せ」と言われ……しかし!!

グレート東郷は強欲だといわれるが、けっこうマネージメント料は常識的だったのではないか?」説というのもあって、ひところ流智美氏も森達也氏も検証してたっけ。


ただ、常識的であろうが法外だろうが、そもそも馬場が稼いだアメリカ・ドルの額がとんでもなく超法外なので、馬場の手元にもそれなりにレインのおこぼれは溜まったのである。

だが、それなりって当時の「それなり」だよ。1ドル360円だよ。
どう海外に旅する人はドルを持ちだすか…というかそもそも、海外旅行には「どう名目を立てるか」に苦労する時代だった。いま貿易赤字だなんだというと、十数年後にはそうなったりは…やはりしないぐらいだ。
そんな時代の風景は、1958年に船医として海外に行けた北杜夫

どくとるマンボウ航海記

どくとるマンボウ航海記

1958年 11月から翌年4月にかけて、水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、インド洋から欧州にかけて航海した。ドイツ訪問が乗船の動機だった[14]。この体験に基づく旅行記的エッセイ『どくとるマンボウ航海記』が同年に刊行されると、従来の日本文学にない陽性でナンセンスなユーモアにより評判となり、ベストセラーとなる。

 
フルブライト留学生として海外に行けた小田実

何でも見てやろう (講談社文庫)

何でも見てやろう (講談社文庫)

小田実を時代の舞台に押し出したのは著作『何でも見てやろう』だった。この本が出版されたのが一九六一年で、高校時代の友人が夢中になって読んでいて、借りて読んだ記憶がある。小田実が「ひとつ、アメリカに行ってやろう」という言葉で始まるこの本の素材になった米国体験と世界無銭旅行をしたのは、一九五八年から六〇年にかけてであった。
http://mitsui.mgssi.com/terashima/nouriki0807.php

にくわしい。
まあ、そんなこんなで、ドルが必要で必要でたまらない人間はたくさんいた。
それも一番身近に(笑)。そう、ドルでギャラを払わなきゃいけない力道山である。

とんで火に入る夏の馬場。
それで「ちょっと貸しとけ」といった力道山に、ドルのほとんどを召し上げられてしまったのでした。しかし馬場、ここで一世一代、人生を変える粘りを見せる。
渋る力道にくいさがり、なんとか「借用書」を書かせることに成功したのだ。
「ナーニ! あくまで形式上のことだが・・・」と言ったかどうかはしらん(笑)


実際この借用証のおかげで、力道山死後、日本プロレスから返してもらうことに成功したのだが…そんなこと以上に、ここで力道山に「カネを貸した」ことで、馬場は暴君だった力道山の精神的なくびきから脱することができたのである。
…というのが柳澤氏の見立てだ。
実際にカネを貸すこと、借りることで、そんなに人間関係、とくに師匠と弟子との関係が変わるものなのかどうか。
自分はおかねを貸すのも借りるのも苦手で、あまりやったことがないのでわかりません(笑)。周囲から体験談を聞くのもあれだし。それに興行にまつわる貸し借りというのはまた別の内的論理が働いたりするでしょうし。

しかし、そういう体験談や、WJ周りの回想記を聞けば、やっぱり「カネを借りた側が、貸した側に対して今までどおりに振舞う」というわけにはいかない。…てか、それによって日本もヨーロッパも、封建主義の世の中から近世、近代への幕が開いたのではないか。
(なんで、そんなむやみに壮大になるのだ)


さらに、こんなところもある。これもカジワラ、知ってかしらずか、実に柳澤ノンフィクションと絶妙な距離の着弾がある。

馬場が凱旋帰国するとき力道山との共同会見があり、馬場がロジャースへの挑戦体験を語ったのは事実なんだが、実際はもうひとつ挿話があって…力道山はそれに乗っかって「ロジャースなどはたいしたことない」的にアピールしたというのだ。

まあプロレス的なフカシである、普通のメディアにとっては。
しかし、その隣には「ロジャース一座」で鍛えられた、その業界の人間=馬場が座っているのである。
 
ほかはいざ知らず馬場には
力道山はそもそも全米で名前の知られた選手ではない。ごく一部をサーキットしただけのローカル選手」
バディ・ロジャース力道山は必死で呼ぼうとしたが、相手が一流レスラー過ぎて呼べなかっただけ」
「なんどもロジャース挑戦し、全米でメインを張った馬場のほうが、本場でははるかに力道山の格上」
 
なことが丸分かりであり、それをわざわざ「たいしたことない」と言及する力道山の心境…コンプレックスも手に取るように分かったのであった。


別の業界、スポーツではなく芸能界でたとえましょう。
同じように師匠と弟子的な関係も強い役者の世界で、師匠と弟子がそろって取材を受けて「ハリウッドもいまは落ちたわねー。いまは邦画のほうが上じゃないかしら?」とか師匠のツキカゲさんがどや顔でいう。でも弟子のマヤはとっくにハリウッドでデビューして、ロバート・デ=ニーロに気に入られて何度も名指しで共演依頼が来る…、さらに、こっそりツキカゲさんはハリウッドのオーディション受けては落選してる…

そんな状態だったとき、弟子のマヤの目が

になることは避けられないよね(爆笑)。


てなわけで、ジャイアント馬場はカネを貸すことによって、そして日本に来てもくれないトップレスラーのバディ・ロジャースの相手役を務めたということで、ある種、一目も二目も絶対的暴君・力道山から置かせることができた。

さらには、凱旋して日本のお客さんに見せた試合は、

結局なんだかんだと、アメリカの洗練されたエンターテインメント・プロレスの動きを学ぶには至らなかった(白人をカラテチョップでぶったおせば良かったのだから、それはそれでただしい)力道山世代とは違う、試合自体が実に楽しく、斬新なものだったらしい。
そういえば昔、馬場自身がべストファイトにこの凱旋第一試合、vsキラー・コワルスキー戦を挙げている記事を読んだよ。


そういう点で、さらに馬場はスペシャルな存在になった(仲間の嫉妬もすさまじかったが、それに対して…これは敢えて触れない)。引退を視野に入れた力道山の後継者への道も開かれつつある一方で、馬場の周囲には「独立して、アメリカに定着すれば何倍も稼げるし、数割を抜くマネージャーだって要らないのに…」という選択肢も、本人の意思に関係なく出てくる。さて、そんな状況の馬場は…

というのが、現在の連載まで。
いやー、長く書いたよー!!!!

再掲載・20日夜のイベント!!こちらは『1985年のクラッシュギャルズ』文庫化に際し

03/20 THU 柳澤健×清野茂樹
女子プロレスの黄金時代を語る
『1985年のクラッシュギャルズ
文庫版発売記念
夢に向かって走り続けた少女たちの栄光と挫折の物語である『1985年のクラッシュギャルズ』。その文庫化を記念して、著者のノンフィクションライターの柳澤健さんとフリーアナウンサー清野茂樹さんが、女子プロレスの過去と現在、そして未来について、大いに語り合います。
 
柳澤健(ノンフィクションライター)
1960年生まれ。出版社勤務を経てフリーに。
主な著書に『完本 1976年のアントニオ猪木』(文春文庫)『日本レスリングの物語』(岩波書店)などがある。
 
清野茂樹フリーアナウンサー
1973年生まれ。広島の放送局を経てフリーアナウンサーに。
現在さまざまなスポーツ中継を手がけるほか、ラジオ日本『真夜中のハーリー&レイス』のパーソナリティとしても活躍中。

柳澤健×清野茂樹女子プロレスの黄金時代を語る『1985年のクラッシュギャルズ』文庫版発売記念
主催: 本屋B&B
東京都世田谷区北沢2-12-4 2F
2014/03/20 [木]
前売/席確保(1500yen+500yen/1drink) 枚 \2,000
当日現金支払(1500yen+500yen/1drink)

さて、文庫情報。昨日発売だったのだね

3月22日、長与千種がリングに復活する!

日本中を興奮の坩堝にまきこんだ長与千種ライオネス飛鳥。そして彼女らに涙した全ての少女たち。あのときとそれから。真実の物語!
内容(「BOOK」データベースより)
1985年8月28日、巨大な大阪城ホールを満員にしたのは、十代の少女たちだった。彼女たちの祈るような瞳がリング上の二人に注がれる。あの「クラッシュ・ギャルズ」の二人のように、もっと強く、もっと自由になりたい!長与千種ライオネス飛鳥、そして二人に熱狂した少女たちが紡いだ真実の物語。

自分の過去記事リンク集も。

全女の若手試合は全て、勝敗を決めず一定のルール下で行った真剣勝負だった (柳澤健
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20100826/p2
「世界初のシュート団体・全女」?この矛盾、混沌がプロレスという「底なし沼」の凄みだ
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110402/p1
1993年の女子プロレス」からエピソード
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110618/p2
柳澤健が再びトークショーを開催。Livewireにて26日。9月は「クラッシュ・ギャルズ本」発売/今後レスリング本も
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110810/p2
「1985年のクラッシュ・ギャルズ」より。ライオネス飛鳥が「目覚めた」時。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20111023/p1