この予告編の1分ごろのところから見てください。息子の入隊をめぐるエピソードがありますね。
映画では、この子の兄が病死したトラウマでリンカーンの妻が精神病の一歩手前まで憔悴して息子の入隊に反対したため、入隊を許可していなかった。しかし息子は自分だけが戦場に行かないのは申し訳ない!と反対を押し切って入隊し・・・という美談になっている。
ただこれも、どこまで史実かあとで調べないとね。
ウィキペディア的にこのリンカーンの息子を調べると
・・・1865年に北軍に加わり、卒業はしなかった。大尉として従軍し、ユリシーズ・グラント将軍の側近を務めた。当時は戦況が収束方向へ向かっていたため、実際の戦闘に遭遇する公算は極めて小さかった。南軍のロバート・リー将軍が降伏したアポマトックス・コートハウスの戦いに参加した。
大統領の息子が総司令官の側近になる、というのは意思疎通のチャンネル確保の意味合いがあるかもしれない。ただ映画でもこの話はちょっと描かれていて、ぶっちゃけ「戦闘に巻き込まれる確率の低い安全な場所に送った」ということ・・・。その後この息子も政界に進出した、ことを考えると、悪意を持って見れば「息子ブッシュ(ベトナム戦争中に州兵)やアル・ゴア(ベトナムには行ったものの陸軍の新聞担当)とかわらん」となるかもしれない。
そして、映画のキモとなるのが、上の記事でも書いたけど
「南軍が和平交渉を希望し、使節団を送ってきた」
↓
「ヤバス!南軍と和平の機運が高まったら、議会は『まあ和平(=人命を救う)のためには、南軍を刺激する「奴隷制禁止修正憲法」は棚上げしてもいいかな』となっちゃうお」
↓
「多少戦争は長引く(=多くの人が余計に死ぬ)だろーけど、南軍の和平交渉使節団は足止めして、修正成立までは和平の件、無かったことにしようず!」
なのダ。
はい、銀英伝のみなさんにマイクをお渡ししまーす。
http://members.jcom.home.ne.jp/sturm/osusume/gine1.html
「ありがとうございます。わたしはただ、委員長にひとつ質問を聞いていただきたくて参ったのです。」
「ほう、それはどんな質問でしょう、私が答えられるような質問だといいのだが・・・」
「あなたはいま、どこにいます?」
「は、なんですと?」
「わたしの婚約者は祖国を守るために戦場に赴いて、現在はこの世のどこにもいません。委員長、あなたはどこにいます?死を賛美なさるあなたはどこにいます?」
「お嬢さん・・・」
「あなたのご家族はどこにいます?わたしは婚約者を犠牲に捧げました。国民に犠牲の必要を説くあなたのご家族はどこにいます?あなたの演説には一点の非もありません。でもご自分がそれを実行なさっているの?」
(ジェシカ・エドワーズとヨブ・トリューニヒトの会話)http://blog.livedoor.jp/parade_of_gantasm/archives/17660798.html
「なるほど、あなたは良心的でいられる範囲では良心的な政治家らしい。だが結局のところ、あなたがた権力者はいつでも切り捨てる側に立つ!手足を切り取るのは確かに痛いでしょう、ですが、切り捨てられた手足からみれば、結局のところどんな涙も自己陶酔に過ぎませんよ、自分は国のために私情を殺して筋を通した、自分はなんと可哀相で、しかも立派な男なんだ、という訳ですな!泣いて馬燭を切るか。ふん!自分が犠牲にならずに済むなら、いくらでもうれし涙が出ようってものでしょうな!」
(ワルター・フォン・シェーンコップ)
自分はこの「お前が行け論」については外のサイトもあわせ過去にも何本か記事を書いている。銀英伝自身を取り上げたりも、原発事故など他の例も書いている。
■お前が戦争に行け論
http://www.tanautsu.net/the-best01_03_01_aa.html
■「「個人の自由と権利に比べれば…」「それなら、私帰っていいですか?」
http://www.tanautsu.net/the-best01_03_02_aa.html
■ヨシ=タナーニヒトの演説
http://www.tanautsu.net/kousatsu01_20.html
■「あなたはどこにいます?」のジェシカ主義(銀英伝)は、菅直人がとどめを刺した。しかしそれでも…
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120304/p2
そのあと、もうひとつ記事を書いた。
■国会事故調、東電撤退問題…「きれいな清水社長」が全面撤退論を語ったら、どう反論する?
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120620/p3
自分のこれに関しての暫定的な結論を再掲載すると
「貴方がた権力者はいつでも切り捨てる側」「あなたはどこにいます?」「他人に命令する前に、自分たちで実行なさったら」は、痛快な啖呵であり、一種の部分的な真実はそこに含まれているんだけど、究極のところでは無効な言説である、ということでいいのではないか