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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

江戸時代も、村祭りに対し「好きな連中だけでやれ!強制するな!」という個人主義者がいた(「漢字雑談」)

新書をもう1冊紹介。待望の高島俊男翁の新作だ。

漢字雑談 (講談社現代新書)

漢字雑談 (講談社現代新書)

内容紹介
義「援」金、名誉「棄」損、膨「張」……その漢字、おかしいですよ。編と篇はどう違う? 古く中国から入った日本語とは? 明治に英語が入ってきて、日本語はどう変わったか? 日本で生まれ、中国で使われていることばとは? 読んでナットク、漢字と日本語のヒミツにふれる名コラム集。
 
著者について 高島 俊男
1937年生まれ。東京大学経済学部および文学部卒業後、同大学大学院人文科学研究科修了。専攻は中国文学。主な著書に『中国の大盗賊・完全版』(講談社現代新書)、『漢字と日本人』(文春新書)、『李白杜甫』(講談社学術文庫)、『三国志 きらめく群像』『水滸伝の世界』(ともにちくま文庫)、『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫、講談社エッセイ賞)、『漱石の夏やすみ』(朔北社、読売文学賞)などがある。


高島俊男氏は新書という場をもらって丸々1冊、最初から最後までをワンテーマで貫いて書いた作品に傑作が非常に多いのだが、これは雑誌連載をまとめた、「お言葉ですが・・・」シリーズなどに近い漢字エッセイ集。
肩の力を抜いて楽しめる一方で、やはり考えさせる章がある。
それが「脅迫状三通」という題の回。これは日本の文字文化がどういうふうに普及したか、漢文で書かれていた文書がどう日本語を盛り付ける器になっていったか、識字率・・・など他のコラムにも関係しているのだが・・・
この回は題名の通り、脅迫状を三通紹介したもの。そして、その脅迫状は江戸時代のものだ。

一通は、「年貢、税金が高すぎる。我々の賦役を減らせ・・・でないと、役所も役人も焼き払います」という・・・なかなか「カムイ伝」な脅迫状。
こういう要求があると無条件で村人をしょっぴき、はりつけ獄門・・・というのも、全部がウソではないがやはり別の意味で講談のたぐいのようだ。なんだかんだと点在する役人の屋敷は武力的には小さなもの、農村にうかぶ島々のたぐい。それに、一揆は仮に鎮圧しても、「発生した」時点で役人は出世コースから外れていく、という弱みもある。
なんだかんだと労使交渉的に、すこしおまけしたり突っぱねたり、だったようだ。

もう一つは男女の色恋沙汰で、「こんどこの商家の娘が嫁に行くようだが、その娘は俺といきさつ(色恋沙汰)があった女。それを嫁にするというなら俺と勝負しろ」
と。これはその娘さんの意志次第で、「かっこいい捨て身のナイト」、かもしれないし「始末に悪いストーカー」かもしれない。まあこれは歴史がどーこーではない。


自分が興味を持ったのは、残りの一通だ。

つぎは村の踊りに対する苦情の落文である・・・「総しばり」は村民全員強制参加。「総がかり」は全員費用負担。「半がかり」は不参加者も費用半額負担である。同様のものがもう一通あり、そのほうにはもっとはっきり、強制するなら踊りをつぶす、とある。これも一種の脅迫状である。
【原文は写すのがしんどいので略し、現代語訳だけ紹介】
 
(当春踊りをやる手筈になり、全員参加、全員負担、半額負担などは難渋するので、これは踊りたい者がやり、費用は参加者が出すことにしていただきたい。)
 
・・・正月だから最初に「当春」と言う。まだ寒い時季だが農業の手すきだから村の踊りを催したものらしい。
 
村の踊り、というと村民の楽しみで、老若男女着飾って嬉々として集まり踊ったように思いがちだが、「踊りたい者が勝手に踊れ」と…拒否したものもいたのだ。それも一人や二人ではない。無視できない輿論だ、と村役人が判断したから、異議申立書を保存したのである。
この二通の短い踊り拒否文書は、わたしの「江戸時代の農村」観、いやそれどころか「日本の農村」観をひっくり返すほどの効果があった。今わたしがいるところの近くでも有名な祭りがある。その時は村中・・・の家が一年の総収入をはたいてご馳走をし参加するそうだ。白い眼を向ける家が一軒でもあるとは思えない・・・今がそうなんだから昔はもっとそうだろう、と漠然とながら思っていた。
(184P-186P)

踊りの主催は村の中でも「若者組(若衆)」の担当だったそうだ。だがイベント開催や力仕事は担当するが、村の肝心部分では支配構造をがっちりにぎっている長老組とは、やはり緊張関係や権力闘争もある。また一方、若衆のリーダーは当時の「リア充」だろう(笑)。
そして文字を読み、書くのは当時の、やはりインテリ層・・・・・。
今の社会に引き当てすぎると、「借景時代劇」になってしまい、それはそれでいろいろと違ってくるのだろう。ただ、「村祭り」のような古きよき共同体の伝統、も、当時から「けっ、何で村中で総負担しなきゃならねえんだよ。やりたいやつだけでやんな」という声があった、という。
それはいまだに人情厚き、世界ウルルン旅行記で行くような途上国の共同体の中にもいるのだろう。葛飾柴又の、向こう三軒両隣の人情下町にもいるのだろう。


同時に、「これこそ”個人”だ。それを押しつぶすムラ社会の息苦しさよ」とするか、「こんなわがままを許していたら、地域の”絆”は保てない。隣の顔も知らないコンクリート・ジャングルではまちは滅びてしまいます」とするか。
これだって両面がある話だ。
山形浩生渾身の一万字書評「なめらかな社会とその敵」評では、ここにふれた印象的なくだりがある。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20130326/1364268478

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

毎度のことだが、ネットで孤立するインテリ都会人たちは、農村生活を美化し、つながりだのふれあいだのに憧れるのだ。でもそれなら、こんな面倒なシステムを作るまでもなく、勝手に近所づきあいをふやし、親戚づきあいをすればいいだけではないか? でも、みんなそんなことはしない。実際にはみんな、そんなものは面倒でうっとうしいと思っているのだ。そして地域のしがらみを嫌ってコンビニで買い物したがるし、引きこもってなんでもアマゾン通販ですませようとする。ぼくはそれが、お金とか選挙とかの仕組みのせいだとは思わない。むしろそういうしがらみを嫌う気持ちこそがそういう制度を作り上げた。面倒なつながりは嫌だというのが人々の本音なのだ。
その意味で、本書は都会人の妄想ではある。それは都会人の、自分が臭い寒いかゆい思いをすることのない、自然と言いつつ実は単なる箱庭愛好のエコロジーと似たようなものだ。その人たちが考えているつながりだのふれあいだのは、実は人工的で表面的な阿諛追従とお愛想だけの代物にすぎない。…(略)・・・きれいで都合のいいフィクションであって、本当の面倒くさい近所づきあいや家族づきあい――足音がうるせえと怒鳴り合い、流言飛語を流し合い、親戚の不始末で後ろ指をさされ、兄弟で介護を押しつけ合う醜悪でわずらわしい代物――とは似て非なるものではないのか?