たまたまtwitter経由でだっけかな?このサイトを見ました。
http://mousoutaiga.blog35.fc2.com/blog-entry-759.html
なんだこの面白さは。
まるで大河ドラマみたいじゃないか。
大変だ、日曜8時に大河ドラマが帰ってきたぞ。第一部で見限った人、長らく大河ドラマに絶望していた人、早く戻って来るんだ!今、NHKが日曜8時に、大河ドラマを流している。
まあ、かつての太平記読みも、客入りが不調になると途中をすっ飛ばして、ぺたりと張り紙。
「本日より大楠公(楠木正成)登場」
これで大入り満員にしたそうだから、平清盛のストーリーが「保元の乱」でブレイクしても何の不思議も無い。自分が見るかと言ったら可能性低いが、本日が地上波再放送だよね。
で、ドラマではこういう解釈があったそうで。
清盛の軍勢に頼盛軍が合流。しかしそこには、一緒に来るはずだった忠正おじさんの姿がありません。頼盛が言います。
頼盛
「叔父上は、来ませぬ!」
忠正、頼盛の代わりに崇徳上皇方に走る!
清盛は連れ戻そうとしますが、家貞が「断じて平氏を絶やさぬようにと考えてのことでありましょう」と必死で止めます。
(略)
「忠正殿、かたじけない」と涙する池禅尼。これ、頼盛に「根絶やし」とか、家貞に「絶やさぬよう」って言わせてるんで、表面的には忠正の行動は「どちらが勝っても平氏が生き残れるように」と考えてのものだという風に見せています。
けど、それだけじゃないよねこれ・・・(略)
ここに、プラスで重層解釈をしているそうですが、そちらはおいといて。
このパターンで有名なのは、関ヶ原の真田家ですね。
みなもと太郎「風雲児たち」から図版を引用したかったが、ワイド版のほうか。
佐久間象山の遣えた信州の真田藩の由来として、智謀の将・真田昌幸が信幸(のち信之)・幸村(信繁)の兄弟に、秘策を授けるシーンがある。「いいか、お前たちのどちらが勝っても、その後全力で」
「負けたモンの命乞いをするのだ」(兄弟ずっこけ)
でも実際、これでみごとに昌幸・幸村は助命され、幸村はその後大阪で見事な死に花を咲かせて歴史に不朽の名前を刻んだ。ついでにいえば兄さんのほうも見事に幕末まで真田家と六文銭の家紋を残し、そこから異才・佐久間象山を生み出し、ついでに恐妻家・愛妻家?としても名前を残した(笑)のだから、これほど成功した戦略は無かった、ということでありましょう。
(信幸恐妻伝説は、この四コマでけっこうネタにされてる)
この策略が有名なのは、登場人物の知名度とその後の重大さ(幸村助命の影響)もあるけど、実際に信幸が必死で助命嘆願をしたことで「家を保つために敢えて憎くも無い兄弟が敵味方に分かれる」ということが証明されている、という部分もあるのでしょう。
さっき紹介した大河ドラマ紹介記事に、自分はこうブックマークでコメントしました。
「大戦争のとき、一族が敵味方に別れれば、家名は確実に続く」つう手法の話はよく聞くけど、意図的にやったか、本当に確執あったかは分からないよね。真田家は勝者側が助命嘆願したけど
だから逆に、大河ドラマ的な解釈だって間違っているとは言えないですね。
ところで。
御三家のひとつ徳川水戸家が幕末「尊王攘夷」の卸問屋となり、それがまさに徳川宗家の屋台骨を揺るがし、崩壊に導いた過程は、まさに「歴史と思想の皮肉」として知られるところです。
家康が、徳川家支配の正統性の根拠とした征夷大将軍の朝廷からの任命・・・それを朱子学的、崎門学的に解釈したとき、論理が自己暴走をおこし、たしかに武家支配の否定論は生まれてしまう。
それは水戸光圀がたんに歴史(中国史)オタクだったといったパーソナリティの問題なのか、あるいは海流の関係で早くから外国船と接触があった水戸の国防危機意識なのか、あるいは高い身分の王家の親族が「もしかして、俺が取って代われるかも?」というライバル意識を抱くようになるという普遍的な歴史の法則なのか・・・
いろいろ解釈はありましょう。
だが、そんな各種の説の中に「水戸家が尊皇思想の家元に??それは家康の『計算どおり』!」という奇説があるのです。
文庫版発刊240万部を突破。いまや押しも押されもせぬ国民的ベストセラーになった“逆説” シリーズ最新刊。題して「天下太平と家康の謎」、歴史はいよいよ戦国から近世の世となる。天下分け目の関ヶ原の戦いに勝つことによって、家康は事実上天下を制した。しかし、その勝利はそれよりさかのぼること50日余り前に行われた軍議の席で決まっていたのだ。すなわち“会議に勝つこと”で、家康は勝利を手中にしていたのである。俗に“鳴かぬなら鳴くまで待とう”といわれた謀略の天才家康の真骨頂がここにある。
自分は井沢元彦の「逆説の日本史」のこの巻で読んだのだが、元は大宅壮一なんかも書いていたみたい。
井沢本からの孫引き。
こういう説も伝えられている。
家康は天海の勧告にしたがって水戸家へ秘密の遺言書を伝えておいた。
それによると、今後徳川家の覇権が何代かつづいたとしても、いつかは必ず何者かによってくつがえされるときがくるにちがいない。相手が諸侯である場合はいいが、万が一朝廷との間で雌雄を決しなければならぬような事態に立ちいたった場合、宗家は面目上これと争わねばならぬとしても、水戸家だけは宗家のことなど考えないで、朝廷の味方をせよというのである
自分は「んなことは無いはず」に一票(何よりも、これでは徳川家康の智謀と戦略眼があまりに神がかっていすぎる)だが、歴史から逆算して奇想を競う(洒落)伝奇小説や歴史推理小説の目で見ると、この「イエヤス・プログラム」という考え方は面白い。
勝海舟は晩年、明治維新を振り返って「江戸幕府は、シツケ糸を一本抜けば、綺麗にほぐれてばらばらになるようになっていたんだ」と語ったとか、語らなかったとか。
そういえば、以前、井沢元彦氏がみなもと太郎「風雲児たち」を褒めたという話を紹介する記事を書いたが、その後みなもと氏も桜田門外の変について描くとき、わざわざ作中で「井沢元彦氏の説による」とある解釈を紹介していた。(Q:襲撃の水戸浪士には、井伊直弼の行列の中でも、中間小者たちも合わせて立ち向かえば数的にも優位では?→A:彼らは雇われ中間だから、名誉心も井伊家への忠義も無くて当然・・・みたいな話)
両者、相互にリスペクトがあるようです。
ちなみに井沢氏の「逆説」、文庫15巻が来月発売とのこと。
2015年に再論
本日、真田丸で「犬伏の別れ」。〜家存続のため、あえて敵味方に一族が分かれる、について(再論) -http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160904/p1
#真田丸 見ました。
— gryphonjapan (@gryphonjapan) 2016年9月4日
みなもと太郎がギャグにしたこの場面を、もっと感動的に描いたという感じですね。
家の分裂でなく「保険としての両軍所属」「勝敗が決した後の相互救援」に重点を置く描き方でも、作家によっていかようにも変わる。 pic.twitter.com/sNbIJKHv7x