「まとめ管理人」氏のツイート
https://twitter.com/1059kanri/status/622429176088268800
小田原の陣のあと、家康の関東移封が決定すると即座に、秀吉が戦争で荒廃した鎌倉の鶴岡八幡の再建を命じて家康に大金を使わせているあたり、徳川が財政難→増税→一揆起こる→改易、という気満々だったのだなあと秀吉の怖さを感じた。鶴岡八幡の再建なんてかつて北条氏綱が国力を傾けたほどの大事業
鶴岡八幡を造らされたおかえしが、方広寺だったか(笑)。
「なんで最大のライバルに、あんな大封を与えたんだ?」「秀吉、おひとよしか?」と評されることも多い家康の関東への国替えだが、北条が滅ぼされた後の関東に火の手が上がらない保証は何にもなかったのだよな。イラクやリビアやシリアの現状を見よ。
小牧長久手の合戦からのち、家康が「関東に根を張れるか、統治に失敗してしまうか」が、家康と秀吉のおおいくさだったのかもしれない。
ここでまたも家康が秀吉に勝利した、と考えれば、やはり天下はしかるべき人物のところに移動したのかもしれない。
そういえば、家康が朝鮮の役に行かなかったのは「関東の都市建設で手一杯、と断れた」「箱根をば誰が護るぞ、と回避した」と言われているけど、井沢元彦は「秀吉は唐入りを当然成功すると思っていたので、家康に新たな武功や領地を与えたくない、むしろ子飼いに戦功と領地を与えたいと思ったからだ」と言ってるなあ。