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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

ある漫画家の主張「漫画家志望者は進学しろ。そしてそれをモラトリアム期間として利用せよ」を考える

2年ほど前の記事だが

赤松健は漫画家志望の学生には必ず「進学」を勧めることにしている
http://catmania.blog13.fc2.com/blog-entry-2089.html

というのを読む機会があった。この赤松健という方、今は電子書籍ビジネスに乗り出して成功している人でもあるそうだ。というか日本有数の人気漫画家だそうだが、なんで俺の目にはほとんど触れないのかね?漫画読みの経験値を上げていくと、興味ない漫画を目にいれない能力もあがるのか(笑)
それはともかく、今回孫引きで読んだ話にはうーんとうならされた。

よく学生さんから「漫画家になりたいのですが」という質問メールが来ます。そんな時、私は必ず「進学」を勧めることにしています。
投稿にしろ持ち込みにしろ、学生などのモラトリアムな状況下で活動していかないと、自分の力なんかは出し切れないのですよ。
失敗できる環境なら、ラッキーパンチを狙いに行くことも可能ですから、本来の実力以上の戦績が期待できます。失敗できない環境だと、どうしても安全策をとって小さくまとまらざるを得ません。
漫画家になるために進学しないとか会社を辞めるなど、もってのほか。自分を追い詰めて良い結果が出ることは、現実世界では殆ど無いのです。
(略)
(…実際には、勝つ人は普段から練習している。負けても大丈夫な環境で。)「モラトリアムな状況下で、ラッキーパンチを出来るだけ多く狙っていけば、夢が叶う可能性が高まる」とは言い切れます。

最近、結構書いている『フルタイムのプロ格闘家を目指すか「THE OUTSIDER」的なアマチュアか』という問題にも、もちろん通じる。あまりそっちの方面に光が当たる機会もないけど、大学や専門学校に在籍中に格闘家としての実績をぐーんと積んだファイターといえばDJ.taiki中村K太郎小谷直之…とかがいましたな。たぶんもっといて、ひょっとしたら主流に近いのかもしれない。


もうひとつ、この記事に興味をもったのは、21世紀の超大国、中国の「若き才能」に関する、おそらくはネガティブな現状を思ったからだ。
有名ブログ 「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む より

中国オタク的に日本の部活動は二次元世界の夢物語?
http://blog.livedoor.jp/kashikou/archives/51313800.html
 
ちょっと前の中国の高校生の生活
http://blog.livedoor.jp/kashikou/archives/51317177.html
 
中国オタクは受験で一度死ぬ
http://blog.livedoor.jp/kashikou/archives/51533845.html

一昔前の日本…はこうだったのか、どうか。
なんだかんだとあって、ここまででは無かったと思うな。旧制高校的文化、高校野球などの神聖化文化、分厚い自営業層の「高校までは行かせてやるけど、学歴は本来不要」文化などが、学歴信仰とは別に存在していた。

もちろん「学歴・成績の超重視が、中国を世界第二の大国にしたんだよ!」「オバマもアジアの教育に学べと言ってるぞ!」「タイガー・マザーといわれる親の教育重視のしつけも評判を呼んでいる!」「いまの中国は『坂の上の雲』をめざす段階。いずれはギアチェンジが必要だが今はそれでいいんだ」
などなどの反論はそれでもっとも。

ただ、思うのは日本も含めた「才能の多彩な発掘」「人生の”複線化”」ということなのですね。
漫画「バンビーノ」だったと思うが、主人公は大学生のアルバイトから始めて、料理の奥深い世界に目覚めて、一流の料理人を目指す。「バクマン。」では漫画家を目指す2人はとりあえず一緒に同じ高校に入り、そこで漫画家修行をする。

たしかに「じゃあ最初っからその世界に入って修行しろ」というのも正論に聞こえるが、今の日本の社会を総合的に考えると、やっぱり赤松健氏の意見のほうが実社会にマッチしたリアルな意見に聞こえる。
してみると、いまの日本の高校・大学が「ゆとり教育」…とはまた別だが、まあまあの温度で”ぬるま湯”状態になっているのは、差し引きのプラスマイナスをあわせると黒字かも??
ということです。少なくともそういう仮説のもと、だれか研究してほしいな。

もちろん、制度をさらに工夫して、勉学の厳しさと「高等教育をモラトリアムとして使う」ことを両立させることもできるかもしれない。たとえば大学は、ドイツだったか?を参考に「入るのは自由、というか入試も不要。だけど進級は卒業までの苦労はパねぇぜ?できないヤツは放校はしない。ずっと学生身分はやるから、何十年でも学生のままでいな」
なんて仕組みだったら、モラトリアムと勉学の意欲はさらに両立していくかもしれない。
あるいは「動物のお医者さん」における菱沼さんのような「オーバードクター」の功罪もいろいろあろう。「いやそういう寄り道もいいもんです」と余裕ぶっこいてられないんじゃないか、対策が必要じゃないかって声も聞くしね。

そのへんの最適解の制度を、各国が競争して開発していくべきだろう、と思うんス。
中国だって、今は「坂の上の雲」を目指すから価値観のものさしは学力一色かもしれないけど、科挙の伝統の一方で「鶏鳴狗盗」「竹林の清談」の故事を生んだ国でもある(笑)
つまらない一芸や無駄な風流、思索が時として生む大成果を意図的に制度の中にかの国が組み込んだとき、よく嘆かれる「わが国は豊かになったが、なぜノーベル賞受賞者(某平和賞受賞者はノーカン)や”中国のスティーブ・ジョブス”は生まれないんだ?」という声は解決されるかもしれない。これは同じ伝統を色濃く残す韓国でもそうかもしれない。


一方で「奇才・異才を制度で生もうというのが間違い。押さえつけても制度が認めなくても、そこでもなお生まれてくるのが本当の才能だ」なんて議論もあるのも承知していますが。