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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「決め方の決め方」について−。検察審査会の小沢一郎強制起訴から

個別事件として、この話をするなら、最終的な結論は裁判によるのだろうけど(※確定判決にだって文句は言える)、当面の問題は「じゃあその結論が出るまで、国会議員または民主党員の身の処し方はいかにあるべきか?」という話ですな。
 
前例として起訴された議員は離党してましたよ、または離党勧告を党のほうから突きつけましたよ−−−というのがあって、それとの整合性に苦しむところだが、個人的には「検察当局の起訴」と「検察審査会の議決による強制起訴」に性質の違いがあるとし、後者には離党を求めない−−という論理構成にも一応の説得力はあるかと思う。ただ、もっと早くからそういう判断基準を党として示すべきであって、今からそれを言うといかにも後付けで説得力が減ですけどね。(監察審査会の強制起訴に関する権限はつい最近付与された)
  
さらに、もし「検察も起訴を諦めたのだから、すぐに無罪になるだろう」という一部の見立てが正しいなら、当事者のしんどさはともかく「逆に公判をしたほうがすっきり無罪でいいんじゃないの」とも思う。「検察審の強制起訴による裁判」の期待水準・予想水準を、受け止めるほうがそう受け止めればいいんで、花火大会事故や列車転覆に関する強制起訴もそう受け止めるべきかもしれない。
 
finalventさんはこう言う。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20101005/1286234108

・・・素人といえば素人だが常識的と言えば常識的な疑問である。
 小沢さんの容疑は共謀だが、これはテクニカルには供述が覆されなくても難しいところ。ただ、これも常識的にみればこんなややこしい仕組みを石川秘書が単独でやるわけないでしょというのはある。
 審議会の手順は現行のルール上問題はない。であれば、それで進めて、やっぱり司法上は問えませんでしたねというのを公にして市民社会の智恵にするのがよいだろう。

そういう点で「プロたる検察が起訴できないと判断したのだから、シロートが起訴しろといって起訴しても裁判じゃどうせ負ける」という議論の参考に、「明石歩道橋事件」「尼崎脱線事件」の強制起訴による裁判の現状を、もっとおっかけてほしいです

ただ、「すぐ無罪になる」んならあっさり自分から離党し、その後無罪を勝ち取って凱旋将軍のように戻ってくればいいじゃん、とも思うんだが、その間に党内勢力が変わる危険があるのでしょうな。権力はいつの世もすさまじい。

市民とは

さて、検察審査会ってものの存在にもいろんな議論がある。
http://mainichi.jp/select/wadai/torigoesyuntarou/news/20101004ddm012070154000c.html

鳥越俊太郎 ニュースの匠 :「市民の力」は正しいか=鳥越俊太郎


 大阪地検特捜部をめぐる証拠改ざん事件の報道は、朝日新聞の鮮やかなスクープでした。今回の事件は単に過去の事実が明るみに出たということにとどまらず、今後の検察の捜査やメディアの報道のあり方に影響を与える、それほど強烈なものでした。

 その朝日新聞の9月19日付朝刊の社説で私が実名入りで批判の俎上(そじょう)にのせられているのもちょっとした驚きでした。政治家や団体の責任者など公的立場の人間ではなく、メディア関係者とはいえ一民間人の私の名前を取り上げるのは社説の中では異例です。まあ察するに、私が当コラムで取り上げた朝日新聞の社説「あいた口がふさがらない」についてのカラシがちょっと効きすぎたのか、社説子にはお気に召さなかったんでしょうね。

 社説の関係部分を引用します。

「市民の力を信じる−−。
 ごく当たり前の話なのに、それを軽んずる姿勢が、社会的立場の高い人の言動に垣間見えることがある。
 裁判員と同じく一般の市民がかかわる検察審査会制度について、小沢一郎氏が『素人がいいとか悪いとかいう仕組みがいいのか』と述べたのは記憶に新しい。ジャーナリストの鳥越俊太郎氏は新聞のコラムで『“市民目線”と持ち上げられてはいるが、しょせん素人の集団』と書いた」

 私は市民の力を信じてはいない。

 市民、世論、民衆、大衆−−こうした存在こそ、実は一番恐ろしいと思っています。日本という国は“世論”という名の下に、一方向にぶれやすい“文化”を抱え込んでいます。その最たるものが、「一億総火の玉」で突き進んだ日中戦争から太平洋戦争に至るプロセスです。

 検察審査会といえども「市民の力」という言葉だけで信じるわけにはいかないのです。正しい市民もいれば、間違いを犯す市民もいる。それをチェックするのが私たちメディアの仕事なのですから。

これは
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20100921#p2
で紹介した朝日社説に対しての返答。とりあえず面白いので紹介した。

 
それより、そもそも的に面白いのは検察審査会の制度。もともと大陪審を参考にしたから、抽選で選ばれるかたちだ。
昔、米国の陪審員ものを最初に読んだときに「こんな重要なことを決める人、そもそも抽選で選出ってのがおかしいよなあ」と思ったことがあった。
「復讐法廷」って作品だったな。私が読んだのは文春文庫だったけど、さすが力のある古典らしく2009年に早川書房から再び出ている。

復讐法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

復讐法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

同じ違和感を、歴史で古代ギリシャの民主政治を学んだときにも感じた。
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-10.html

アテネの政治の特徴は、公職担当者を抽選で選んだ点です。
今で言えば総理大臣も裁判官も役人もくじで選ぶ。くじに当たったら誰でもそれをやる。
これはいいことかどうか。(略)・・・ある意味では徹底的に公平です。

政府の公職はくじで選んだのですが、例外があった。それが将軍です。戦争の指揮というのは、誰でも出来るものではない。ある種の才能や人望が必要です。
もし無能な者が将軍になって戦争に負けたら取り返しがつかない。だから将軍職は選挙で選びました。ペリクレスはこの将軍職に15年連続して選ばれたのです。その地位からアテネの政治を指導したわけ。
だから完全に平等のように見えてもやはり指導者は必要だったんですね。

たしかに理屈からいえば徹底している。
ここまで極端かどうかはともかく、立法、行政、司法の中で、これまで司法は司法試験をくぐった人たちの特権によって運営されていた。
何度か書いたが、先日逝去された故小室直樹氏の言葉で私が印象に残っているものの1つに
「王の権力に対応する、対抗できるのは?」
「うーん、市民の平等な権利?」
「違います、他の勢力の『特権』です」
というのがあった。司法が司法として独立する、というのは本当に大変なことで、それを維持するのは難しいんだけど、かといって本当に国民のコントロールがない「特権」のままだといろいろ困る。それを補うのが裁判員制度であり、強化された検察審査会である−ーというのは、ひとつの解として興味深い。
しかし、選挙によって民意を問う方向にはいかないななかなか。最高裁裁判官の信任投票は完全に形骸化が完了している。
アメリカの制度に倣えば、最高裁判事は議会の承認を得る・・・という仕組みもあるが、これのためにときの大統領府がそれに沿った人材を送りこみ、それをめぐる政争が毎度の風景であることもおなじみだ。


■参考おおやにき「アテネ民主制」
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000708.html

書ききれず中断

「決め方の決め方」には
・議会定数「世代区」論(菅原琢「世論の曲解」より)
参院有識者推薦論
・記名投票で民主党代表選が行われていたら?
・ブラジル大統領選
世論調査の結果発表制限
などについても書きたかったのだけど、かく時間が無かったす