うわっ、紹介しようと思って忘れてた。まだ探せ喫茶店とかに先週分あるかな?
週刊現代にはリレー形式で新聞記事を格付けする「新聞の通信簿」というコラムがあり、先週は魚住昭氏が書いていた。そこで取り上げたのは、ニューヨークタイムズのノリミツ・オオニシ記者が麻生太郎が野中広務に出自差別(部落差別)の発言した、という話である。
要約すると
・私のところにオオニシさんは取材に来た
・取材源秘匿のため、詳しく語れなかった。彼の取材も難しいだろうと思った
・ところが記事は私以上に踏み込んだものだった。見事だった
・その記事のことを紹介しない日本メディアはダメだ!みんな0点!!(東京新聞は過去に社外執筆者が書いた記事が載ったということで30点ぐらいついてたか)
と、いうような話でした。
で、私はこのNYT記事について以前書いているけど、
■麻生太郎、野中広務、ニューヨークタイムズ
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090121#p4
で述べたように国民新党・亀井久興という名前が出た、という以外では一歩も進んでいない、どころか発言内容に関しては従来報道より二歩も三歩も後退している記事だ。ほかならぬその、従来記事の著者が気付かないのはあれぇ?てな話
正直にいうと、私はこの魚住氏の「私の文章より踏み込んでいる」というNYT記事評を読んだ結果、「そうかNYT記事は思っていたより信憑性が高いんだな」じゃなくて「あれ?魚住本(「野中広務 差別と権力」)って俺が思ってた水準より検証甘いんとちゃう?」と感じてしまいました。
これは「ニュージャーナリズム」の持つ根本的なつらさもある。
自分がその場にいないところでの発言や出来事は
『「一週間前、AはBだったよ」…とCさんは取材者に証言した』というのを積み重ねてノンフィクションは再現していく。
その中でニュージャーナリズムという流れでは「綿密に取材して、裏をとれたと確信できれば『AはBだった』と断定していいんじゃね?」ということになり、そういう描写をしている。
しかしその「確信」の基準は、結局のところ執筆者の裁量、判断ということになる。おのずからそこにはムラがある。
今回の「オオニシ氏の記事は私以上に踏み込んでいた」という魚住氏の告白は、そういう舞台裏を想像させるひと言だった。