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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「昭和のジンギスカン」こと牟田口廉也のちょっといい話【敗将列伝】(第0回)

孫引き情報だが
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080712/p1

インパール作戦に関する河邊正三(ビルマ方面軍司令官)の日記に基づく抄録、ガダルカナル島撤退作戦についての瀬島龍三の回想録(帰国直後のもの)、ノモンハン事件についての大本営参謀や関東軍参謀の考察・・・などが公開されたようだ

実は今年、インパール作戦を指導した牟田口廉也中将閣下の生誕120年なんですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F

牟田口 廉也(むたぐち れんや、明治21年1888年)10月7日 - 昭和41年(1966年)8月2日)は、佐賀県出身の陸軍軍人。陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。

なぜ昭和のジンギスカンかというと、そういうふうに自分で言ってるから(笑)。正確にはそういうコンセプトで20世紀の軍事作戦を立案した。自己申告。


今年出た、こういう本があります。

昭和の名将と愚将 (文春新書 618)

昭和の名将と愚将 (文春新書 618)

199-200P

半藤 戦後に、この牟田口廉也には、私は何べんも会いました。彼は小岩に住んでいましたが、訪ねていってもどういうわけか、うちへ入れてくれないんですね。「君、外で話そう」とか言ってスタスタ歩いていってしまう。江戸川の堤まで行って土手に座って話していました。


保阪 家族に聞かせたくなかったのでしょうか。


半藤 たぶんそうなのでしょうねえ。なぜかいつも土手でしたよ。お茶一杯ご馳走になったわけじゃない。だから悪口を言うわけじゃないですけれども(笑)。話していくとこの人は必ず最後には激昂するんです。戦後しばらくしてイギリスからインパール作戦に関する本が出たのですが、その本に日本軍の作戦抗争をほめている部分があったのです。牟田口はその論旨を力説していまして、なぜ俺がこんなに悪者にされなくてはならんのか、ちゃんと見ている人は見ているのだっ! 君たちは分かってない! と何べんも何べんも怒られましたよ。


保阪 そこのところをコピーして晩年までずっと持ち歩いていたみたいですね。僕はとうとう会えなかった世代ですけど、ある人からその話を聞きました。「君のところに牟田口から連絡は来なかったか」と。どうやら昭和史の研究者のとことろには自分から電話して、そのコピーの内容を説明しにやってきたそうです。最後の頃はその話ばかりで鬼気迫るものがあったと。


ところで今わかったんだが、「愚将」という言葉は馴染みの無い日本語というか、MS−IMEは単語として登録してないみたいですね。使う機会ままありそうなのに。
世の中にはいろんな碑があるのだから、せっかくこれだけ名誉名声、未来の評価にこだわった閣下を記念し、生誕120年に「嗚呼愚将牟田口廉也」の碑でも生まれ故郷に設置すればいいのに(笑)

ウィキペディアの「人物」「挿話」が充実している。

■この頃つけられた呼び名は「鬼畜牟田口」。
■また当時このような歌も流行った。
「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女)、三に新聞ジャーナリスト」。
■「馬鹿な大将、敵より怖い」
■「無茶口(ムチャグチ)」


とくにこのエピソードは強烈だ。

インパール作戦が敗色濃厚となり部下(参謀の藤原岩市といわれる)に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した時に、部下から「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と言われたが、結局自決することはなかった。


むかし、ヒトラー最後の日を描くドイツ映画の紹介で「うちの会社の倒産直前の時にそっくりだ」という感想を引用したことがあったが、こういう牟田口のような人の姿を、自分の組織に見ることも時にはあるのだろうか。


沈黙と雄弁、誠実と不誠実

それでも、彼のように自己弁護をずっと言い続ける人は、その意見があまりに一方的でもあるにせよ、ひとつの記録を残すことが可能となる。

上記の本では陸軍特攻作戦の責任者・菅原道大中将を半藤が取材した時の話を書いている。

半藤  僕は昭和36年に(略)会いに行っているんです。菅原は埼玉県の飯能で養鶏業を営んでいました。もちろん特攻隊の話を聞きにいったのですが「申し訳ない」とひれ伏してしまって何も話してくれない。「とにかく若い人たちを悪く書かんでください」と、そればっかりなんです。
「いやいや、そんなことを言っているのではなくて、陸軍の特別攻撃隊というのはどういう形で発案されて、どういう手続きを経て始まったものかを知りたいのです」といくら言ってもだめなんです。「自分は犬畜生と罵られてもいい、だけど特攻隊のことは悪く書かないでください」って、本当にそれしか言わなかった。一時間もいたのに聞けたのはこれだけでした。


牟田口と正反対に、全面的に非を認めてひれ伏してわびる。
自分は犬畜生と呼ばれてもいい、と罵声を甘受し、一切の弁明はしない。
若い者たちだけは…と部下を全力でかばう。


だけど結局、何がどうだったのか分からない(笑)
こんな人物も、身近な組織の中に見ることがあるかもしれない。


今パラパラと見直したら

自分は興味の無い人物なので記憶から抜けていたが、瀬島龍三のエピソードが実に抱腹絶倒だった。
もう時間と体力が無いので、機会あれば後日。

【追記】ここにつながります。
m-dojo.hatenadiary.com

または【敗将列伝】という単語でこの日記内を検索してみてください。

時代の風