INVISIBLE Dojo. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「赤旗水滸伝」? 戦後共産党の武闘路線の回想聞き書き?がなんかすごい

ちょっとツイートがとびとびでしか読めないのでこの時系列でいいのか、もともとの出典はどこなのか、そもそもなんでこの話題になったか(笑)よくわかんないけど、読んでて面白かったので集めさせてもらった。

https://x.com/kingbiscuitSIU


「1、すべての駅で帰国者を歓迎する。2、列車が通過するさいには赤旗を振る。3、労働組合その他の組織を動員する。4、茶菓の接待をする。5、「アカハタ」新聞を配る。6、引き揚げ者一人一人に接触して本人が望むなら入党させる。7、引き揚げ者の求職、住宅捜しの援助を積極的に行う。8、引き揚げ者への学校教育の準備をする。」


「引き揚げ兵たちは彼らの降りるあらゆる駅に日本共産党員が出迎えに来ているのを見た。党員たちは東京の品川駅で彼らに向かい「あなた方が長い間シベリアに抑留されていたのは日本政府が引き揚げ促進のために何もしなかったからだ。あなた方が祖国へ帰れたのは、ほかならぬわれわれ共産党員のおかげなのである」と吹聴した。」


軍事委員会に属していた。和歌山、奈良地方山間部に配属された山村工作隊の所属は、日共中央軍事委員会直属であり、その正式名称は「独立遊撃隊関西第一支隊」であった。」


「これは、隊結成の直接責任者であった当時の日共大阪府委員会軍事委員Wが、結隊式の席上、「この隊結成は党中央がすでに認知したものであり、今後関西における第二、第三の隊結成を想定して第一支隊と命名された」と説明したことによって証明される。また最近になって日共中央軍事委員会に直結する西日本ビューロー責任者Mが和歌山市内にアジトを構え、この山村工作隊結成を指導していたという証言も得ている。」


「この山村工作隊は総勢三十名、和歌山県伊都郡花園村で結隊式を行い、これを大隊編成とし、大隊本部を花園村に置き、第一中隊、第二中隊を和歌山奥有田地方、第三中隊を奈良奥吉野地方に配属した。」


……軍隊経験ある者たちが、当時の共産党員にも当然多数いたはず。三池争議に至る前段階として。


「一般に募集がされてたわけだから、俺たちは、もちろん党員を潜入させたよ。そうして、そのへんを手がかりにしながら、警察と警察予備隊の下部に工作して、やつらの動きをつかみ、影響力を浸透させる工作をやっていたんだ。これは、抵抗自衛に不可欠な工作だし、特殊な部署が秘密裡にやらなくちゃならねえ性格のもんだからな。これが軍事委員会の大きな任務の一つだった。こいつは執拗(しつよう)にやったよ。」


「それにね、これはいってみれば「失業対策」みたいなことでもあったんだよ。レッドパージ共産党の活動家が大量に放り出されちゃった。こいつらをいろんなところに配置したわけだけど、なかで、優秀なオルグで非公然活動に向いている連中を、対権力の工作にふりむけたわけだ。」


「そうやってつくられた非公然工作隊は、最初は暗号名マルKっていってね、丸に警察のKだよ。警察のオルグをした。それは、軍事方針が出てくるまえからだし、軍事委員会が組織されるまえだよ。これを裏組織が運営していた。東京の各地区の軍事委員なんていうのは、初期は全部マルKが横滑りしたものだよ。」


終戦後は、警察にもかなり工作の余地があったんだ。昭和二一(一九四六)年には、東京の立川の警察署長が、共産党に入るからってんで辞表を提出して、それが認められないで懲戒処分になったっていうんで、共産党が問題にしたことがあったくれえだからな。警察にも、けっこう共産党のシンパ(同調者)がいたし、少数だけど党員もいたんだよ。これは、潜り込ませたんじゃなくて、外からオルグしたんだ。」


「俺は、当時は批判できなかったけれど、いま思うと、こういうこと自体が、革命運動としてはよくなかったと思うよ。そりやあ、いい方を変えたり、秘密を持ったりするのはしょうがねえよ。だけど、ほんとうのところは、真っ正直にいうべきだったと思うんだよね。」


「それが、さっきいった労働組合運動に対する「赤色労働組合主義」っていう問題につながっている。自分たちのほんとうの心をあかさないで、労働組合や大衆を引きまわしていこうっていう根性だよ。」


「だって、少なくとも、主流派の幹部が、あんときの日本で暴力革命ができるし、やらなきゃならねえ、と思っていたなんてこたぁ、ねえのさ。俺が身近で見ていたかぎりでは、そうは思っちゃいなかったね。」


「軍事委員会や軍事行動は、暗号名でYといっていた。なんの意味だかわかんねえ。地下活動というのは、暗号名が好きでね。YとかVとかさ。「栄養分析表」とか「料理献立表」とかさ。「本店」とか「支店」とか「出張所」とかいうのは、偽装として、まあ、わかるけどね。労対(労働組合対策部)を「あやめ」、農対(農民対策部)を「さつき」なんていったりした。のちには、「こいのぼり」とか「たがね」とか「おろち」とか、わけのわからねえ暗号名がはびこったようだね。」


「軍事闘争は、昭和二七(一九五二)年一月から激化して、白鳥事件(札幌の白鳥一雄警部射殺事件)、青梅事件(東京・青梅線の貨車暴走事件)、小河内(おごうち)村山村工作隊事件(東京小河内村山村工作隊一斉検挙)と続いて、大都市各地で大小無数の武装衝突事件が起こった。


 特に大きかったのが、東京のメーデー事件(二人射殺、一二三〇人検挙)、東京新宿駅前・板橋岩之坂交番所などでの火炎瓶騒擾(そうじょう)事件(三人射殺、一〇二人検挙)、大阪の吹田事件(六〇人検挙)、名古屋の大須事件(一二一人検挙)といった街頭衝突で、デモ隊は盛んに火炎瓶を投げて武装警官と渡り合った。」


「こういった事件の中には、菅生(すがお)事件(大分県の派出所爆破事件)のように警察の謀略だったものもあるが、共産党の指導で若い労働者・学生・在日朝鮮人武装闘争に走ったのは確かだよ。」


「農村に農民委員会をつくろうというのが方針だったわけだけど、これはなかなか進まない。それで、レッドパージ組の労働者党員やなんかを、農民を組織化するために送り込んだんだよ。それが最初だよ。だから、山村根拠地になりそうなところだけじゃなくて、例えば、横浜の街からそんなに離れていないようなところにも、工作隊の拠点があったりしたんだ。そういうとこがいっぱいあったよ。のちに、こういうとこは、軍事に関係なく拠点になったりした。これは、軍事方針とは、もともとまったく関係がねえわけだよ。」


「だいたい、俺たちは、山村根拠地をつくって武装闘争をやるなんてことは、不可能だと思っていたんだよ。俺なんかは、中国共産党軍のゲリラ戦を知ってるんだからね。あれとおんなじようなことを日本でやろうとしたってダメだってことは、はっきりわかってたからね。」


「だから、野坂参三ペンネームで非公然の雑誌に山村根拠地論・遊撃隊論を書いたとき、俺は全面的に批判したんだ。それは、はっきりと批判したよ。中央は、この野坂論文に基づいて、東京では奥多摩に山村根拠地をつくれ、そこに武装遊撃隊を組織しろっていってきたんだからね。」


野坂のやつ、延安(中国共産党軍の根拠地)にいたのに、なんで、こんなことがわからねえんだろうって首ひねったよ。なに考えてやがるんだってね。冗談じゃねえ。そんなもん、ひとたまりもねえよ。」


「俺たちは、鉄道輸送の状況と自動車道路の状況、警官隊や予備隊、米軍の動員力の実態、そういったデータを、独自の調査活動を通して、また国鉄や運輸や基地の労働者の協力も得て、調べ上げていたんだ。俺は、そういうデータをもとにして、あいつらがつぶしにかかってきたら何日保(も)つか、具体的に指摘してやったよ。「せいぜい、三日です」ってね。」


「こっちゃぁ、軍隊の経験があるからね。それに基づきながら、数字や地図を細かく示して、非常にリアルに具体的に指摘してやったよ。中央のやつら、ぐうの音も出なかったよ。だから、俺が軍事委員長の間は、東京では山村根拠地建設なんて方針はまったくとらなかった。」