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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

辻政信は戦後日本で、こんなふうに「人気者」だったという資料(1952年、朝日新聞。画像からテキスト化)

以前、こんな記事を書いた。

戦後裏面史〜元陸軍参謀・辻政信参院全国区3位当選を描く「1959年の辻政信」を読んでみたい。【敗将列伝】

m-dojo.hatenadiary.com

wikipedia:辻政信

政治家として
追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党鳩山一郎派、石橋派に所属石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセルユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。
政治家になった辻は1955年(昭和30年)にソ連に視察旅行に出かける。このとき辻はソ連のさまざまな人と会話をして、ソ連の実情を看破した。また、ノモンハン事件で対決したジューコフと辻は極秘に会談し「アメリカが日本に小笠原列島と沖縄を返還したら、ソ連は千島と樺太を返すだろう」などの内容を話し合った。辻は次のソ連の政権はジューコフフルシチョフで争われるだろうと予想したが、実際にそうなり、フルシチョフが政権を握った[16]。
衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で自民党を除名されて議員を辞職。参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選した。


この、1959年の参院選挙全国区で、辻はなんと堂々の3位当選であったことよ。
wikipedia:第5回参議院議員通常選挙



辻は戦時中、フィリピンでもさまざまなことをやらかしたが、そのフィリピン戦線で生死の境をさまよった山本七平がこう書き残している。

…追及するその人が、自分が戦争中何を信じ、何をいい、何を行ったかを忘れかつ棄却するための他者への追及は、追及という名の打ち切りにすぎない。
 いまそれを批判することは、戦時中を批判すると同様にたやすい。だが私はいつも、その批判の横から、奇妙な”戦時中の顔”がこちらをのぞいていることに、気づかないわけにはいかなかった。
 最初にこれを強く感じたのは、辻政信の華々しい復活であった。確か60年安保の少し前と思うが、参院選における彼の街頭演説の現場を偶然目にし、その痛烈な岸首相批判演説と実にみごとな演技と、それに対してやんやの喝采を送り、次々と握手を求めている聴衆の姿を見たときであった。なぜこれが可能なのか、なぜこれが常に通用するのか。なぜ彼が常に一つの「権威」として存続しうるのか。彼よりもむしろ、興奮し喝采し声援を送っている人々の姿に、私は、あの敗戦も克服し得なかった”何か”を感じた。

(「一下級将校の見た帝国陸軍」あとがきより)

9年前にまとめたtogetterだが、当時は「生きていれば113歳」であり、行方不明のジャングルからひょっこり生還すれば「帰ってきたヒトラー」的な物語すら作れるのでは…と妄想したり。いまの「122歳」でもギリ行けるかな?
togetter.com

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その後、手軽に読める新書で詳細な評伝が出たりしたこともあり、多少状況は好転した。

元陸軍参謀が最後に企てた“作戦”とは?

1961年(昭和36年)4月4日、元陸軍参謀にして参議院議員辻政信は、羽田空港から東南アジア視察のため単身、飛び立った。実はその出発直前、数々の「異変」が確認されていた。たとえば、辻の次男・毅氏はこう証言する。

〈父はタラップに4回出てきたんです、機内に入ってから。あり得ないことです……〉

その後の足取りは杳として知れず、8年後に「死亡宣告」が出された。
伝説の作戦参謀は、いったい何をしようとしていたのか――。

その生涯は、まさに波瀾に満ちている。

苦学の末、士官学校を首席で卒業、陸大で恩賜の軍刀を下賜された。
初陣の第1次上海事変での武勇が報じられ、一躍、時の人となるが、作戦を主導したノモンハン事件で多数の犠牲者を出し大損害を蒙る。
太平洋戦争緒戦マレー作戦で名を上げ「作戦の神様」と称されるが、シンガポール攻略後の華僑虐殺問題やフィリピン戦線での捕虜殺害、ガダルカナル島奪還作戦の失敗などにより、その勇名は地に墜ちる。
タイ・バンコク玉音放送を聞いた後、潜行生活に入ることを決意、ラオスベトナムを経由して中国に渡り、極秘裏に日本へ帰国する。
戦犯指定解除後、『潜行三千里』など手記が次々とベストセラーに。
勢いに乗って衆院選でトップ当選、さらに参院選で全国3位となるもその任期中に、内戦下の東南アジアへと向かい、消息を絶った――。

辻政信の主な評伝が刊行されたのは1980年代までだった。以来、30年以上の月日が流れている。本書は、戦前・戦中のみならず、戦後の潜伏生活や政治家としての言動、そして失踪に至るまでの経緯や死生観を丹念に検証し、数々の新証言・新事実をもとに辻政信の実像に迫っていく。

謎の失踪から60年――。毀誉褒貶の激しい作戦参謀の“正体”が明かされる。

そういえば最近「満州アヘンスクワッド」にも、辻がモデルの人物が登場したっけ。

満州アヘンスクワッドに辻政信っぽい人物が登場

(コミックスにはまだ登場してないはずです)


それとは別に……やや遠出して出かけたある場所で、朝日新聞データベースを使える機会があった。古い記事などが探せるやつ。

ただ、ごく限られた時間で、限られた件数しか検索閲覧できなかった。自分の探し方が悪かったのか、そもそも辻政信をそれほど深く追っかけた記事が朝日新聞ではあまりないのか、自分が以前タイトルにしたた参院選全国区の時、「1959年」の記事は簡単な当選者一覧的なものしか見つからず…読み物として今でも興味深い内容と分量があるのは、1952年9月23日夕刊の、この記事しかなかった。
なかなか内容はおもしろい
すでにこの記事に著作権はないし、張り出してみる。
ただ、この当時の活字って本当に今と比べると小さいし、印刷するとさらに読みにくい。それを紙から写真撮影するという、さらにしょっぱいやり方でUPするので、結果的に読めなかったらすまぬ。

そこは運に任せて「読みたいが読めないぞ!」と思う人は自分で探してみてほしい。いや、解る範囲で、後からテキスト化しました。繰り返すが 1952年9月23日 朝日新聞夕刊より。

1952年の辻政信 朝日新聞より

※反響受けテキスト化しました!

選挙戦にも辻旋風 どこに?この人気 聞かす特異の「新軍備論」

 「潜行三千里」の辻政信元大佐が故郷の石川県第一区から無所属で立候補しているが、追い込み戦に入った最近までに全国に例のないほどの人気を集め、同区に「辻旋風」というのを巻き起こしている。元軍人の立候補は熊本1区の元少尉と辻氏の2人だけだが、戦時中は人も知る通り大本営参謀だったし、戦後は戦犯として追及され長く姿をくらますなど波乱に飛んだ経歴を持つ辻氏だけに、話題でもあり、考えさせるものを多く含んでいる。そこで辻旋風の正体を石川一区(石川、小松両市、石川、能美、江沼三郡)の現地で探ってみよう。


去る19日夜7時半から石川郡美川町の小学校で開かれた個人演説会聴衆約2500、広い雨天体操場兼用の講堂は超満員だった。この日本海に面した漁師町の有権者は約3800だからその7割近いものが集まったわけ。彼は「新軍備を再開する。北海道には5個師団を置くが、その他はスイスのように民兵で守る。石川県は石川県人で、それも40歳以上の男で守る」と演じる。そんなことができるかなと首をひねる人は少数で、あとはナカナカの拍手。1時間半の「時局講演」を終って控え室に引き上げた辻氏を追って、街の旧郷軍分会長が挨拶に来る。
その1人--頭のはげ上がった中老人に向かって「おうXX君じゃないか、30年ぶりだね」と辻氏は声をかける。有名人に覚えていてもらったというわけで当人はすっかり感激、辻氏の記憶力は相当なものだそうだが傍らの人に「この人は伍長勤務で銃剣術の達人でしたよ」とついでに一言。


辻氏一行が車に乗って次の予定地出発すると、その車を取り囲むようにしていた一群、ざっと300人が走り出す車に向かって「辻先生万歳」とやりだした。これは軍部の各演説会場のどこでも見られる風景だそうだ。
彼が少尉で金沢7連隊付をしていた当時の部下、大正12、3年頃の兵隊たちが現在では村の有力者になってだいたい保守勢力と結びついている。だから表になって現れるかどうかはまだ疑問としても、とにかく”辻旋風”の一つの根拠となっていることは間違いない。


辻氏自身も「人気があることと得票とは別だ。私は最高点でなければ落選だろう」と言っているが、東京では想像できない「郷軍組織の強さ」を利用していると言える。


選挙事務所は金沢市武蔵ケ辻の一角の空き地に作られ、辻氏が「ビルマの司令部を思い出させる」と懐かしがっている幕舎。そこで作戦を練るのは同じ陸士36期の4人の大中佐。特に演説日程など細かいことは元ソ連武官だった宮子実氏が受け持っている。
出入りしているのも大半が元軍人、海軍側も顔を出すという。それだけに「元一等兵じゃ入りにくくて…」というファンもいる。中核となる4人の同期生は「主張も主義も辻と一致したわけではないが、同期生として辻個人を応援している。選挙が済んだら一切手を引く」といい、辻氏が発起人となっている東亜連盟同志会のことについては全く触れようとしない。
そして「彼がムソリーニになりかけたら同期生は手を引くぞと常に警告している」という。


同じ石川一区から自由1、改進3、左社1、共産1、無所属1と辻氏の他8人立候補しているが、各候補とも浮動票をごっそり持っていかれるーと”辻旋風”を恐れている。。


どの候補も中盤戦まで正面からの「辻攻撃」を行っていなかった。だがこれだけはまず自分のものとそろばんを入れていた浮動票が文字通り辻側へ動き引き出しそうな形勢となったので追い込みに入ってから切り込みを始めている。
辻氏の出身地江沼郡の大聖寺町での立合演説会で、改進党のある候補が「同じ石川県出身のある海軍大佐は多くの部下を殺して申し訳なしと、艦と運命を共にした。しかるに辻はなんぞや…」とやり始めたところ、思いがけない猛烈なヤジに遭い演説を続けられなかったという事件があったが「戦犯とか、職業軍人とかいうことを選挙民は忘れてしまったのか」「元大佐を当選させたら石川県の恥だ」という批判の声も相当強く、彼の人気は何か割り切れない感じであった。