(※【敗将列伝】は準タグです。これで日記を検索すると、そのシリーズが出てきます)
この時期になると、どのメディアも当然ながら戦争の記録、記憶一色となる。そしてこれまた当然ながら、1945年の太平洋戦争敗戦の年を中心に、あるいは同戦争の開戦の記録や、遡っての大陸事変について報道される。
ただ、それはそれで重要だけれども……ちょっとだけ視点をずらして、こういうところも描けないかなあ、と思うのである。
政治家として
追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党鳩山一郎派、石橋派に所属。石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。
政治家になった辻は1955年(昭和30年)にソ連に視察旅行に出かける。このとき辻はソ連のさまざまな人と会話をして、ソ連の実情を看破した。また、ノモンハン事件で対決したジューコフと辻は極秘に会談し「アメリカが日本に小笠原列島と沖縄を返還したら、ソ連は千島と樺太を返すだろう」などの内容を話し合った。辻は次のソ連の政権はジューコフとフルシチョフで争われるだろうと予想したが、実際にそうなり、フルシチョフが政権を握った[16]。
衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で自民党を除名されて議員を辞職。参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選した。
この、1959年の参院選挙全国区で、辻はなんと堂々の3位当選であったことよ。
wikipedia:第5回参議院議員通常選挙
辻は戦時中、フィリピンでもさまざまなことをやらかしたが、そのフィリピン戦線で生死の境をさまよった山本七平がこう書き残している。
…追及するその人が、自分が戦争中何を信じ、何をいい、何を行ったかを忘れかつ棄却するための他者への追究は、追及という名の打ち切りにすぎない。
いまそれを批判することは、戦時中を批判すると同様にたやすい。だが私はいつも、その批判の横から、奇妙な”戦時中の顔”がこちらをのぞいていることに、気づかないわけにはいかなかった。
最初にこれを強く感じたのは、辻政信の華々しい復活であった。確か60年安保の少し前と思うが、参院選における彼の街頭演説の現場を偶然目にし、その痛烈な岸首相批判演説と実にみごとな演技と、それに対してやんやの喝采を送り、次々と握手を求めている聴衆の姿を見たときであった。なぜこれが可能なのか、なぜこれが常に通用するのか。なぜ彼が常に一つの「権威」として存続しうるのか。彼よりもむしろ、興奮し喝采し声援を送っている人々の姿に、私は、あの敗戦も克服し得なかった”何か”を感じた。(「一下級将校の見た帝国陸軍」あとがきより)
衆院出馬と当選は1952年、参院選は1959年、いずれも主権を回復した日本国民が、完全な自由意志と自由投票により一票を投じた、民主選挙である。
その結果、食人参謀・辻は国民の代表者として議員バッジを着け、全国的な人気でも「銅メダル」を得たという…
ま、ウィキペディアにもあるけど「贅沢は一切しない」「危険な戦場でも勇敢だった」「部下を身を挺して助けた」「上官にも直言する」といった、ミクロのレベルで下士官や下級兵士に慕われるような美徳(の演技?)…銀英伝だったらむしろ善玉に付加される属性も発揮されたことがあるみたいで、それが議員当選の後押しになったことも認めざるを得ないだろう。
その政治家・辻の、あまりにも不思議な末路も面白いが、山本七平がおそらく絶望や困惑で見つめた「辻政信に喝采する有権者」と合わせて、参謀時代の話なども踏まえつつ、この選挙と、むしろ「辻支持者」に焦点を合わせた「1959年の辻政信」…これを描けたら、戦争以上に「ある種の教訓」になるんじゃないかと思うのです。
小日本主義のリベラリストで、息子が戦死した石橋湛山が、辻を懐刀とした皮肉
以前、辻については一度書いたことがあった。
【敗将列伝】原爆忌、終戦記念日を控え・・・”食人参謀”辻政信の著書が復刊! -http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120805/p3
なんて本まで復刊されている、という驚きの報告にくわえて、こんなことも書いた。
辻の戦後政治家としてのスタンスが、”反共反米”的な色合いを濃厚に持っていたこと、そこから「反岸」だったことによる・・・「敵の敵は味方」「それが政治だ」と言ってしまえばそれで理屈は通り、納得するしかないのだけど・・・
石橋湛山の業績や人格評にすら影響を与えかねないような気がする。
読んだ限りの、石橋評伝にはこの辻政信を「飼っていた」ことに関する話題は出てこない。
石橋湛山も、日本国の総理の地位を得るまでは、「政治のデーモン」にその身も心も任せた時代もあったのだろうか
(石橋の識見は、総理辞職後の長い余生(議員ではあるけど)に発揮されたという人も多い)
【追記】※最近…2022年に新書が出て、この時の希望(1959年、全国区3位当選のことを知りたい)をほぼ満たしてくれた。
元陸軍参謀が最後に企てた”作戦”とは?1961年(昭和36年)4月4日、元陸軍参謀にして参議院議員の辻政信は、羽田空港から東南アジア視察のため単身、飛び立った。実はその出発直前、数々の「異変」が確認されていた。たとえば、辻の次男・毅氏はこう証言する。
〈父はタラップに4回出てきたんです、機内に入ってから。あり得ないことです……〉
その後の足取りは杳として知れず、8年後に「死亡宣告」が出された。
伝説の作戦参謀は、いったい何をしようとしていたのか――。その生涯は、まさに波瀾に満ちている。
苦学の末、士官学校を首席で卒業、陸大で恩賜の軍刀を下賜された。
初陣の第1次上海事変での武勇が報じられ、一躍、時の人となるが、
作戦を主導したノモンハン事件で多数の犠牲者を出し大損害を蒙る。
太平洋戦争緒戦マレー作戦で名を上げ「作戦の神様」と称されるが、
シンガポール攻略後の華僑虐殺問題やフィリピン戦線での捕虜殺害、
ガダルカナル島奪還作戦の失敗などにより、その勇名は地に墜ちる。
タイ・バンコクで玉音放送を聞いた後、潜行生活に入ることを決意、
ラオス、ベトナムを経由して中国に渡り、極秘裏に日本へ帰国する。
戦犯指定解除後、『潜行三千里』など手記が次々とベストセラーに。
勢いに乗って衆院選でトップ当選、さらに参院選で全国3位となるも
その任期中に、内戦下の東南アジアへと向かい、消息を絶った――。辻政信の主な評伝が刊行されたのは1980年代までだった。以来、30年以上の月日が流れている。本書は、戦前・戦中のみならず、戦後の潜伏生活や政治家としての言動、そして失踪に至るまでの経緯や死生観を丹念に検証し、数々の新証言・新事実をもとに辻政信の実像に迫っていく。
謎の失踪から60年――。毀誉褒貶の激しい作戦参謀の“正体”が明かされる。
【編集担当からのおすすめ情報】
辻政信の名は、昭和陸軍の悪しき独断専行の代名詞のように使われてきました。数多ある評伝の中で、辻を好意的に取り上げているのは1冊だけしかないという指摘もあります。
2018年に辻の地元である石川県の金沢支局に赴任した読売新聞の前田記者は、辻の関係者に取材し、新たな資料にあたることで、これまで知られることのなかった数々の事実を発掘していきます。
30年もの時を超えて、今こそ世に問う本格評伝、ぜひご一読ください。