川島耕司『仏教と暴力の容認』は面白い論文でした。日本においてよく「平和・非戦」の宗教と捉えられがちな仏教が、実はその歴史上、かなり血なまぐさい殺人肯定の論理を次々に生み出したことを論じる。著者はスリランカ史の研究者であり、特にスリランカ仏教の戦争遂行の論理は注目できる。
— 岸本元 (@bowwowolf) November 22, 2023
スリランカの仏僧が記した王朝年代記『マハーワンサ』(5世紀ごろ成立)には、ドゥトゥギャムヌ王が護国の戦いとはいえ敵を虐殺したことを悔やみ、それによる仏罰の有無を僧侶に問うが、僧侶は「仏教徒でない者は人間ではないので殺しても往生に支障はない」との旨の、虐殺正当化の論理を述べる。
— 岸本元 (@bowwowolf) November 22, 2023
現代スリランカにおいても非仏教徒の悪魔化が僧侶によりなされており、ある僧侶のFBでは《ムスリムたちは、人間という種の外部にいる者たちだと記され、犬にムスリムの名前をつけるよう示唆されたこともあった》。異教徒や異民族からの「護法」のため殺生が、現代においても肯定されている。
— 岸本元 (@bowwowolf) November 22, 2023
本論文でも、日本仏教が戦前、戦中に犯した「敵を殺すのは功徳」といった理屈の過ちが触れられている。それとの共通性を思えば、胸が苦しくならざるを得ない。難しいかもしれないが、私たちの過ちを繰り返さないように呼びかけていくことが日本仏教から世界の仏教徒への発信として必要なのではないか。
— 岸本元 (@bowwowolf) November 22, 2023
「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」の冒頭、阿闍世王がヴァッジ国を滅ぼしていいかと釈尊に使者を通じて相談した際「いやあ、民主的で宗教的なヴァッジ国は滅ぼそうとしても滅ばんやろ」と婉曲的に戦争はやめれと諫めたエピソードがある。そういう態度が日本の沙門にも求められているのではないか。
— 岸本元 (@bowwowolf) November 22, 2023
ともかく、綺麗事でなく仏教にも敵の殺害、戦争の遂行を容認する思想があり得ることを知った上で、なお、綺麗事でもいいから「己が身に引き比べて、殺すなかれ、殺さしむるなかれ」(ダンマパダ)の思想を訴える必要があるのではないかと思う次第である。価値相対主義に流されずに、厳然と。
— 岸本元 (@bowwowolf) November 22, 2023
この話、おおっと反応したのは…
どの本だかHPだったか…たぶん、書籍だったと思うんだけど。
仏教のお経か説話の中で、インド?の王様だか武士階級から「殺生はいかんというけど、祖国の為、愛する者のために勇敢に戦って死んだ戦士って、がんばったのに地獄に落ちるのか?成仏できないのか?」という釈迦への?直球の問いと、その回答があったっていう話をおぼろげに記憶してるのよ。
へー、面白い問いと回答だな…と思った記憶はある(鮮明)なのだけど、なんて本なのか、そもそも釈迦?の回答はなんだったのか、それを完全に失念したのよ。いま、このツイートを読んで、そのさがしもの、なくしものが見つかったかもしれない、と思ったわけ
そういえばこの話ともつながるかな
m-dojo.hatenadiary.com
そして、そう思ったのはその本を読んだときも
「なるほど、そういえば素朴な原始宗教とかだとだいたいは『勇敢な戦士は美徳であるから、死後も救いがある』がふつうじゃね?イスラムだって肯定的だし、むしろ一部のキリスト教と仏教だけがそれを”ジレンマ”、”難問”と考えてるんじゃね?」と。
こんな論文まであるぞ
https://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?research/iilcs/15_lcs_31_1_matsumoto.pdf
4.『ヴィンランド・サガ』における暴力・非暴力
次に,幸村誠によるマンガ『ヴィンランド・サガ』の分析に移る。本作品は 2005 年 4 月に『週刊少年マガジン』で連載を開始し,同年 12 月に『月刊アフタヌーン』に移動した後月刊連載となり,2019 年 1 月現在までに単行本 22 巻が刊行されている 17)。11 世紀初頭の北ヨーロッパを舞台とし,アイスランド出身の少年トルフィンの成長を描く物語である。タイトルの「ヴィンランド・サガ」とは,本来は 13 世紀のアイスランドで執筆されたふたつのサガ 18),「赤毛のエイリークルのサガ」と「グリーンランド人のサガ」を指す呼称である。これらは中世北欧において「ヴィンランド」(もしくは「ヴィーンランド」)19)と呼ばれた北米大陸への移住をめぐる物語であるため,まとめて「ヴィンランド・サガ」と呼ばれている。マンガ『ヴィンランド・サガ』はこの中世のサガに取材し,主人公のトルフィンもサガに出てくる移住団のリーダー,ソルフィンヌル・カルルセヴニ Þorfinnr Karlsefni をモデルとしている。ほかにもクヌート大王などの実在の人物が登場し,ストーリー自体はフィクションだが,11 世紀の時代背景や生活環境を説得力をもって描き出している。本章では暴力と非暴力の描き方に注目し,このマンガが北欧神話や中世北欧社会をどのように利用しているかを考察する。
マンガ『ヴィンランド・サガ』には,対照的なふたつのヴァルハラ像が登場する。ひとつは,トルケル 20)というデンマーク出身のヴァイキングの首領とその仲間たちが抱くものである。11世紀は北欧のキリスト教への改宗期に当るため,マンガの中でも住民の間にキリスト教徒が増えてきていることが言及されるが,トルケルたちは依然として北欧の神々を信じる異教徒である(第 3 巻,173-174)。図 2 に示した第 21 話「ヴァルハラ」の一場面では,トルケルがヴァルハラについて以下のように説明している。「神々の使者戦ヴァルキリー乙女たちは常に勇者の魂を求めている/神エインヘリアル々の戦士と呼ぶに相ふさわ応しい勇者をな/まさに戦い/まさに死んだ者だけが/虹ビフロストの橋をわたり天界の戦ヴァルハラ士の館に住むことを許される」(第 3 巻,179-180)。また,彼の仲間たちも「あヴァルハラの世でオーディン神に胸を張れる/「あのトルケルと決闘の末に死にました」ってな」と嬉々として語っている(第 6 巻 , 149)。彼らにとっては勇敢に戦い戦場で死ぬのが理想であり,「あたり前」の生き方なのである。ここには,まさに第 2 章で確認したような,『エッダ』が伝える戦士の楽園としてのヴァルハラ像が表現されているといえよう。
あるいは…これは浅羽通明氏から聞いたんだが、映画「セデック・バレ」で描かれた、まさに台湾を植民地化する日本と勇猛果敢な戦争を繰り広げた先住民族も「戦って死ぬなら素晴らしい天国が待っている。戦わないならそうならない」と考えたからこそ勇戦奮闘したのだと。
www.youtube.com
www.youtube.com
こっちの方がある種のスタンダードなんじゃないかなあ、と。
そこで、不殺生とかそういう戒……もちろん、これも一種、普遍的な人間感情から生まれるものではあろう(墨子の戦争不義論などもある)。
それを聞かされた人が「えっ、勇敢に戦って相手を殺し、自分も戦死したウォリアーも殺生という罪を犯した悪人扱いなの?あの世で?」と素朴に驚き…本人も戦士や将軍だったらなおさらだろう。
それに対して仏教はどんな回答を用意したのか。
たぶん過去に読んだけど、忘れた話(笑)は、上記のツイートのどれかに関係してると思う。
川島耕司という人は、こんな本を書いている。
コメント欄より。疑問に解答!!!
パーリ経典『戦士経』のことではないかと思います。佐藤哲朗さんのnoteで知りました。
(ご存知でしたらすみません)
『セデック・バレ』と『戦士経』―― 「首狩り宗教」から魂を解き放つ
note.com
id: gryphon
いやまさに、まさにです。これで疑問が氷解しました、ありがとうございます。
そのまま記事に盛り込みます
ここなんか、自分の問題意識そのまんま。
民族のテリトリーを守り拡張するために、勇ましく戦って敵を殺し首を狩る。その行為がある種の「宗教的救済」にも直結している。このように戦闘と救済を結びつけた信仰の形は、じつは人間社会に現れた「宗教」に普遍的に認められるのではないかと思います。
戦士経(Yodhājīvasuttaṃ)。約二千六百年前の古代インドで、武士(戦士)の長がお釈迦様を尋ねた時の対話を記録した短い経典です。スマナサーラ長老の訳を引いて、内容をご紹介します。
あるとき、武士の長(おさ)がお釈迦さまを訪ねて来ました。
お釈迦さまのそばに座った武士の長は、世尊にこう尋ねました。
「偉大なる先生、拙者は歴代の将軍であった指導者たちからこのように教わったことがあります。曰く、『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士が、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天(という天界)に生まれ変わるのだ』と。偉大なる先生にあられましては、この教えについてどうお考えですか」と。
お釈迦さまは、「長よ、止めなさい。そういうことを私に問うものではない」と…(後略)
関連で
目次あり。「日本人は仏教の何に感化され、文化を、歴史を、思想を形成してきたのか。
— 猫の泉 (@nekonoizumi) November 22, 2023
日本人に影響を与えた仏教の重要史料を、その時代背景や文脈とともに一挙収録。…」
⇒大角修編
『基本史料でよむ 日本仏教全史』
KADOKAWA https://t.co/sz9T8eeoap
しかし、スリランカ近代仏教にしても、ドゥッタガーミニ王が僧に虐殺を悔いたら「人のかたちをした動物を殺しただけ」と言われた話も、今まで散々議論されてきた話で、それが「知られざる真実」みたいに語られる日本語圏のTwitterのほうがわりと驚く。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) November 23, 2023
ブライアン・ヴィクトリアの『禅と戦争』も、戦争協力した僧侶の語録としての価値はある。しかしその法灯を継ぐ流れにおいて、英米や日独伊から修行者が集い一堂に介して参禅修行に勤しんだその後を知らぬ者たちが戦争責任を詰る虚しさにはほとんど傾聴しようという思いすら削がれる。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) November 23, 2023
こういう人たちを満足させる答えを考えて用意するかにかまけて時間を費やすことほどムダなものはない。かつての敵国どうしが坐禅してともに坐る尊さと比べたら、ほとんど無価値にしか思えないのである。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) 2023年11月23日
目次あり。「今日、宣戦布告による国際法上の戦争ではないが、実質的には大きな戦闘が続いている。このような中で、戦争と宗教の関わりを探ることも意味があろう。宗教には、殺すことへの禁忌、…」
— 猫の泉 (@nekonoizumi) May 24, 2024
⇒鈴木董編
『戦争と宗教の世界史』
山川出版社 https://t.co/VNFHv8y24t
「…すなわち不殺生戒があるが、広狭様々であり、戦争についても、不戦・義戦・聖戦と様々である。原初の仏教では、人間すべてのみならず、生類すべてに対する不殺生戒があった。イエス時代のキリスト教では、生類すべてではないが、人間については絶対的不殺生戒があり、不戦が原則だった。…」
— 猫の泉 (@nekonoizumi) 2024年5月24日
「…モーセの十戒「汝、殺すなかれ」のユダヤ教では、「まともな人間」についてのみ不殺生戒が及び、エホヴァの神とその信徒を害する者を討つことは聖戦であった。最新の一神教イスラムも同様である。しかし、時とともに不殺生戒も、戦争についての宗教の見解も変化していく。…」
— 猫の泉 (@nekonoizumi) 2024年5月24日
「…原則、「不戦」であったキリスト教も、「義戦」を認め始める。本講では、代表的諸宗教の各々の不殺生戒と戦争論について、各々を専門とする第一線の研究者がわかりやすく解説する。」
— 猫の泉 (@nekonoizumi) 2024年5月24日
第六講 ゾロアスター教の戦争イデオロギー ――「世界最古の啓示宗教」とサーサーン朝ペルシア帝国 青木健
— 猫の泉 (@nekonoizumi) 2024年5月24日
第八講 ジャイナ教の不殺生戒と戦争 上田真啓
第十一講 儒教における「人を殺すべき場合」 小島毅
等々