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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「勇敢な戦士は善であり、天国に行けるよね?」との問いに、慈悲や平和を謳う宗教はどう答えているのか(仏教など)







この話、おおっと反応したのは…
どの本だかHPだったか…たぶん、書籍だったと思うんだけど。
仏教のお経か説話の中で、インド?の王様だか武士階級から「殺生はいかんというけど、祖国の為、愛する者のために勇敢に戦って死んだ戦士って、がんばったのに地獄に落ちるのか?成仏できないのか?」という釈迦への?直球の問いと、その回答があったっていう話をおぼろげに記憶してるのよ。


へー、面白い問いと回答だな…と思った記憶はある(鮮明)なのだけど、なんて本なのか、そもそも釈迦?の回答はなんだったのか、それを完全に失念したのよ。いま、このツイートを読んで、そのさがしもの、なくしものが見つかったかもしれない、と思ったわけ

そういえばこの話ともつながるかな
m-dojo.hatenadiary.com


そして、そう思ったのはその本を読んだときも

「なるほど、そういえば素朴な原始宗教とかだとだいたいは『勇敢な戦士は美徳であるから、死後も救いがある』がふつうじゃね?イスラムだって肯定的だし、むしろ一部のキリスト教と仏教だけがそれを”ジレンマ”、”難問”と考えてるんじゃね?」と。


それはヴァイキング北欧神話の「ヴァルハラ」であり、

ヴィンランド・サガ ヴァルハラ信仰 トルケル

comic-days.com

こんな論文まであるぞ

https://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?research/iilcs/15_lcs_31_1_matsumoto.pdf
4.『ヴィンランド・サガ』における暴力・非暴力
次に,幸村誠によるマンガ『ヴィンランド・サガ』の分析に移る。本作品は 2005 年 4 月に『週刊少年マガジン』で連載を開始し,同年 12 月に『月刊アフタヌーン』に移動した後月刊連載となり,2019 年 1 月現在までに単行本 22 巻が刊行されている 17)。11 世紀初頭の北ヨーロッパを舞台とし,アイスランド出身の少年トルフィンの成長を描く物語である。タイトルの「ヴィンランド・サガ」とは,本来は 13 世紀のアイスランドで執筆されたふたつのサガ 18),「赤毛のエイリークルのサガ」と「グリーンランド人のサガ」を指す呼称である。これらは中世北欧において「ヴィンランド」(もしくは「ヴィーンランド」)19)と呼ばれた北米大陸への移住をめぐる物語であるため,まとめて「ヴィンランド・サガ」と呼ばれている。マンガ『ヴィンランド・サガ』はこの中世のサガに取材し,主人公のトルフィンもサガに出てくる移住団のリーダー,ソルフィンヌル・カルルセヴニ Þorfinnr Karlsefni をモデルとしている。ほかにもクヌート大王などの実在の人物が登場し,ストーリー自体はフィクションだが,11 世紀の時代背景や生活環境を説得力をもって描き出している。本章では暴力と非暴力の描き方に注目し,このマンガが北欧神話や中世北欧社会をどのように利用しているかを考察する。
マンガ『ヴィンランド・サガ』には,対照的なふたつのヴァルハラ像が登場する。ひとつは,トルケル 20)というデンマーク出身のヴァイキングの首領とその仲間たちが抱くものである。11世紀は北欧のキリスト教への改宗期に当るため,マンガの中でも住民の間にキリスト教徒が増えてきていることが言及されるが,トルケルたちは依然として北欧の神々を信じる異教徒である(第 3 巻,173-174)。図 2 に示した第 21 話「ヴァルハラ」の一場面では,トルケルがヴァルハラについて以下のように説明している。「神々の使者戦ヴァルキリー乙女たちは常に勇者の魂を求めている/神エインヘリアル々の戦士と呼ぶに相ふさわ応しい勇者をな/まさに戦い/まさに死んだ者だけが/虹ビフロストの橋をわたり天界の戦ヴァルハラ士の館に住むことを許される」(第 3 巻,179-180)。また,彼の仲間たちも「あヴァルハラの世でオーディン神に胸を張れる/「あのトルケルと決闘の末に死にました」ってな」と嬉々として語っている(第 6 巻 , 149)。彼らにとっては勇敢に戦い戦場で死ぬのが理想であり,「あたり前」の生き方なのである。ここには,まさに第 2 章で確認したような,『エッダ』が伝える戦士の楽園としてのヴァルハラ像が表現されているといえよう。


あるいは…これは浅羽通明氏から聞いたんだが、映画「セデック・バレ」で描かれた、まさに台湾を植民地化する日本と勇猛果敢な戦争を繰り広げた先住民族も「戦って死ぬなら素晴らしい天国が待っている。戦わないならそうならない」と考えたからこそ勇戦奮闘したのだと。


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こっちの方がある種のスタンダードなんじゃないかなあ、と。
そこで、不殺生とかそういう戒……もちろん、これも一種、普遍的な人間感情から生まれるものではあろう(墨子の戦争不義論などもある)。

墨子の思想 非攻兼愛 東周英雄伝

それを聞かされた人が「えっ、勇敢に戦って相手を殺し、自分も戦死したウォリアーも殺生という罪を犯した悪人扱いなの?あの世で?」と素朴に驚き…本人も戦士や将軍だったらなおさらだろう。

それに対して仏教はどんな回答を用意したのか。

たぶん過去に読んだけど、忘れた話(笑)は、上記のツイートのどれかに関係してると思う。


川島耕司という人は、こんな本を書いている。

コメント欄より。疑問に解答!!!

id:stonedlove

パーリ経典『戦士経』のことではないかと思います。佐藤哲朗さんのnoteで知りました。
(ご存知でしたらすみません)
セデック・バレ』と『戦士経』―― 「首狩り宗教」から魂を解き放つ
note.com



id: gryphon

いやまさに、まさにです。これで疑問が氷解しました、ありがとうございます。
そのまま記事に盛り込みます


note.com

ここなんか、自分の問題意識そのまんま。

民族のテリトリーを守り拡張するために、勇ましく戦って敵を殺し首を狩る。その行為がある種の「宗教的救済」にも直結している。このように戦闘と救済を結びつけた信仰の形は、じつは人間社会に現れた「宗教」に普遍的に認められるのではないかと思います。

戦士経(Yodhājīvasuttaṃ)。約二千六百年前の古代インドで、武士(戦士)の長がお釈迦様を尋ねた時の対話を記録した短い経典です。スマナサーラ長老の訳を引いて、内容をご紹介します。

あるとき、武士の長(おさ)がお釈迦さまを訪ねて来ました。

お釈迦さまのそばに座った武士の長は、世尊にこう尋ねました。

「偉大なる先生、拙者は歴代の将軍であった指導者たちからこのように教わったことがあります。曰く、『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士が、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天(という天界)に生まれ変わるのだ』と。偉大なる先生にあられましては、この教えについてどうお考えですか」と。

お釈迦さまは、「長よ、止めなさい。そういうことを私に問うものではない」と…(後略)

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