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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

江戸川乱歩が定義する「プロバビリティー犯罪」という話は聞いてたけど、偶然その原文に当たったので転載しておく

この話を、自分はポプラ社の、ネタバレ満載で子供向けにミステリーを紹介する「推理小説の読み方」という本で知った。
推理小説の読み方| ポプラ・ブックス| YA| 本を探す|ポプラ社
その時はそもそも「プロバビリティー」probability なんて英語をそもそも知らなかったよ(笑)


その元ネタが、以下に紹介する江戸川乱歩のエッセイだったのだけど、ひとつ前の記事を書くためにホームズに関するあれこれを検索する途中に発見して、知らない人には面白い概念かと思うのでまるまる転載する。
なお、乱歩の全作品(及び数々のキャラクター)は2016年元日をもって、著作権のないパブリックドメインとなっています
m-dojo.hatenadiary.com

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なお、壮絶にネタバレしちゃうのでタイトルは伏せるが、うちでしばしば取り上げる、ある超有名なレジェンド漫画家の短編……「〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇」が、このテーマを直球で書いてましたね。
※このリンクに飛ぶと作品名がわかりますが、自己責任でお願いします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%92%E3%81%9F%E6%9C%A8%E3%81%AE%E6%A0%B9%E3%81%A3%E5%AD%90






※そういえば、昭和の推理小説レビューらしく……というか、江戸川乱歩のミステリー普及への情熱の余り、この評論でもビッシビシと固有の作品の実名を挙げてのネタバレが多数あります。(当時はこれが普通で、いまがネタバレに無駄に厳しすぎるとも言える!)そこはご了承の上お読みください。

7 プロバビリティーの犯罪


 確率を計算するというほどではなくても、「こうすれば相手を殺しうるかもしれない。あるいは殺し得ないかもしれない。それはその時の運命にまかせる」という手段によって人を殺す話が、探偵小説にはしばしば描かれている。むろん一種の計画的殺人であって、犯人は少しも罪に問われないという、極めてずるい方法だが、しかし、そういうやり方で人を殺した場合、法律はこれをどう取扱うのであろうか。
 西洋の探偵小説によく出てくるのに、こういう方法がある。幼児のいる家庭内のAがBに殺意をいだき、階上に寝室のあるBが、夜中階段を降りる時に、その頂上から転落させることを考える。西洋の高い階段では、うちどころが悪ければ一命を失う可能性が十分ある。その手段として、Aは幼児のおもちゃのマーブル(日本でいえばラムネの玉)を階段の上の足で踏みやすい場所においておく。Bはそのガラス玉を踏まないかもしれない。また、踏んでも一命を失うほどの大けがはしないかもしれない。しかし、目的を果たした場合も、失敗に終った場合も、Aは少しも疑われることはない。誰でも、そのガラス玉は幼児が昼間そこへ忘れておいたものと考えるにちがいないからである。
 無邪気な子供のおもちゃのガラス玉が、恐ろしい殺人の手段に使われるという対照に妙味があるせいか、西洋探偵小説にはこの手がよく使われる。最近出版されたイギリスのカリングフォードという作家の長篇探偵小説「死後」にもこの方法が出ていたので、またかとほほえましくなったほどである。
 このように、うまくいけばよし、たとえうまくいかなくても、少しも疑われる心配はなく、何度失敗しても、次々と同じような方法をくり返して、いつかは目的を達すればよいという、ずるい殺人方法を、私は「プロバビリティーの犯罪」と名づけている。「必ず」ではなく「うまくいけば」という方法だからである。これをテーマとした作品は古くからある。「一例をあげると、R・L・スティヴンスンの「殺人なりや?」という短篇には、人間の好奇心と「あまのじゃく」の心理を巧みに利用したプロバビリティーの殺人が描かれている。
 それは、ある伯爵がある男爵に復讐する話で、両人がローマ滞在中のある時、伯爵はなにげないていで、男爵に自分の見た妙な夢の話をする。「私は昨夜ふしぎな夢を見た。君の出てくる夢だ。君が私の夢の中で、ローマ郊外のある地下墓地(ローマ名物のカタコム)にはいるのを見た。私はあんな墓地があるかどうか知らないが、夢の中でそこへ行った道順や沿道の景色までハッキリ覚えている」とこれを詳しく話し、「君はそこで自動車を降りて、その地下墓地を見物するためにはいって行った。私もそのあとからついて行った。荒れはてた物凄い地下道だった。君はその暗黒の中を、懐中電燈をたよりに、ズンズン進んで行った。私は君がなんだか無限の地の底へ消えて行くような心細い気分になって、もうよしたまえ、早く帰ろうと、何度も声をかけたが、君は見向きもしないで、暗闇の奥へ奥へと進んで行った。……妙な夢を見たものだ」と印象深く話してきかせる。
 それから数日後のある日、夢物語を聞かされた男爵が、自動車で郊外をドライヴしていると、偶然、伯爵の見た夢の中の景色とそっくりの田舎道を通りかかる。探して見ると、夢と同じ地下墓地もちゃんとそこにあった。夢と現実のふしぎな一致。男爵は好奇心にひかれた、懐中電燈をつけて、その墓穴へはいってみないではいられなかった。夢と全く同じことを繰り返すという一種異様の興味が彼をそそのかしたのだ。彼は墓穴の奥へ奥へと進んで行った。そして、ハッと思うと、何かにつまずいて、突然足の下の地面がなくなり、そこにあった古井戸におちこんで行った。助けを呼んでも人はいない。男爵はついにそこで絶命してしまう。
 こうして伯爵は復讐の目的を果たした。彼の夢物語は作為のウソで、実は数日前、彼自身その墓穴を見物したことがあり、その奥の古井戸のてすりが、古くなってこわれていることをチャンと知っていたのだ。作者は「これが果たして殺人罪といえるだろうか」と、それを疑問符つきの題名としたのである。
 日本では谷崎潤一郎氏が、私のいわゆる「プロバビリティーの犯罪」に先鞭をつけている。同氏の「途上」という初期の短篇がそれだ。夫が妻を殺そうとして、全く犯罪とならぬ手段を、いろいろ考える。暖房のガス管の開閉ネジを、細君の寝室の人の足にさわりやすい所に取りつけさせ、女中がウッカリそのそばを通って、着物の裾がさわり、ネジが開くことを予期するとか、自動車が衝突した場合、右側の座席にいた人が、傷を受ける率が多いというので、いつも細君を右側に乗せるとか、これに類した一見悪意のない種々の試みをし、ついに細君を死に至らしめるという話である。私はこれを読んだとき、何が巧妙だといって、これほど巧妙な殺人はないだろうと感じ入り、その影響で、「赤い部屋」という短篇を書いた。
「赤い部屋」には「あまのじゃく」で強情ものの盲人が、「もっと左によらなければ危ない。右は地下工事の深い穴がある」と知人に声をかけられて「そんなことをいって、また、からかうのだろう」と、わざと逆に右の方により、下水の穴におちて、うちどころが悪く一命をおとすとか、夜中に、けが人を乗せた自動車の運転手に、近くの医者をたずねられ、右へ行けば上手な外科医院があるのを知りながら、左の方のへたな内科兼業の医院を教え、手当がおくれて、けが人が遂に死んでしまうとか、そういうプロバビリティーの殺人手段を五つ六つならべてある。
 西洋ではイギリスのフィルポッツが、このテーマで「極悪人の肖像」という長篇探偵小説を書いている。ある人を殺すために間接に、何の恨みもないその人の幼児を、人知れず殺す。犯人とこの幼児とは何の関係もないのだから、疑われる心配は少しもない。幼児の父は、妻は早死し、その子供が唯一の愛情の対象だったので、その愛児に先立たれて、この世に望みを失い、やけくそになって、冒険的な乗馬にふけり、山中で落馬して一命をおとす。間接殺人が効を奏したのである。また、ある気の弱い男に、犯人が医師である立場を利用して、君は不治の病にかかっているといつわり、だんだんそう思いこませて、煩悶はんもんの余り自殺させようとする。
 西洋の短篇ではアメリカのプリンス兄弟という合作作家の「指男」というのがある。主人公は、異常心理の犯罪者で、その男は幼児のころ、神様から、彼の好まぬ人間に神の審判を下すことを許されたと信じている。神様がおっしゃるには、「お前は人間のことだから、間違いをしないとは限らぬ。だから決定権はわしが握っていることにする。お前はただ処罰の試みをすればよいのだ」というお告げであった。そこでその男は幼年時代から今日に至るまで、その特権を行使してきた。七歳の時、嫌いな乳母を殺すためには、夜、階段の上にローラースケートを置いておけばよかった。神様が処罰が正しくないとお考えになれば、乳母はスケートに気づくであろう。処罰が正しいとおぼしめせば乳母はスケートをふんづけて転落するであろう。その乳母は頸の骨を折って死亡した。
 少女が往来で目かくし鬼の遊戯をしていた。その男はソッとマンホールの蓋を取りはずしておいて、見物していた。少女はその穴におちて死んだ。神は少女を受け入れたもうたのである。ある医者の仕事場のガス・バーナーの栓をあけておいた。医者は葉巻をふかしながらその部屋にはいった。そして火焔に包まれて死んだ。神は医者を受け入れたもうた。その男は「処罰」の手段として、地下鉄を愛した。多くの男女がそこで神に受け入れられた。ラッシュ・アワーの地下鉄のホームのはしに手鞄を放り出すと、ある女はそれにつまずいて線路に転落し、車輪に首をちぎりとられた。またその男はある鍛冶屋の仕事場にしのびこんで、大鉄槌の柄をゆるくしておいた。鍛冶屋はそれを使用して、抜けた鉄槌の頭にうたれて死んだ。等、等、等。
 引例は以上にとどめるが、この「プロバビリティーの犯罪」は、刑法学上、また、犯罪学上、深く考えれば、興味ある題目となるのではないかと思う。冗談に「医者は何十人の人を殺さねば一人前になれぬ」という。その何十人の内に入った患者こそ迷惑千万だが、そういう善意の殺人(?)は罪とならぬ。そういうものと、ハッキリした殺人罪との境界線が問題なのである。「プロバビリティーの犯罪」はこの境界線の前後にあるものと思うが、そこに確然たる一線を引くことは、非常に困難であろう。それだけに、この問題には最も深い考慮を要するのではないであろうか。
(「犯罪学雑誌」昭和二十九年二月号)

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