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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

『卑弥呼』が蔑称だと「今後の対策」を考える自民議員の愚かさから、「帰化人」や「征伐」など過去の用語改変問題も考えよう


けっこう議員さんも、
ものをしらないなあ、と思うが、まあ盆踊りほどにも必要な知識でもないのだろう。

ブクマでも、大いに嗤いのネタになっている。
b.hatena.ne.jp


実際のところ、「これは蔑称、軽蔑の意味が入った当て字です」というのは、学校教育ではいつから教わるの?これは「蝦夷」、「南蛮」、「蒙古」、「匈奴」などなどに通じる重要な大前提だから、かなり初期から教えて、強調したほうがいい。ブクマで「小学校から教わったはずだ」とあったけど、本当にそうかしらん?
知ってる人は教えてほしいです。


ちなみに、いまはこの辺の話が

・いかに中国の、そしてある部分で重なる「朱子学」の、こういう異民族異文明蔑視思想が愚かで害毒であったか(それを受容した日本風朱子学への反省も多少含むから、悪いことではナイ)
・だからある程度、中国からの「冊封体制」から距離を置いた日本の歩みは正しく、冊封体制に疑いを持たずどっぷり浸かった周辺の国よりは優れていたか(ん?このへんから何か不穏に)
・その中国冊封体制から抜け出る、近代化するためには、ある程度の無理は仕方が無かったのではないか…

みたいな方向にもって行くパターンも多いような気がしますな。「卑弥呼は中国思想の害悪が生んだ差別的蔑称なんです!」というのを強調する、というの自体は「だからこの字を変化させる」というのでなければ結構正しい方向かもしれんが、さてどうなるかな。


卑弥呼」を「これは蔑称!今後どうするかは考えます!」の愚かさから「帰化人」「〇〇征伐」なども考えたい

実は上で箇条書きした、中華思想冊封体制がいかに害毒であるかを強調する…のは司馬遼太郎もそうだったけど、いま、大衆に広めているのは井沢元彦氏だろう。

だが、彼は「卑弥呼」について、あやしげな考察をいろいろ語ってたが(笑)、それでも卑弥呼は蔑称だから変える、とかは言うまい(議員も言ってはいないが)。

それどころか、逆の提言をしてるのである。

帰化人」や「征伐」などの言葉を変えるのは良くない(井沢元彦

…ちなみにエゾに「蝦夷」という誤字をあてるのは、差別意識である。これは「野蛮人」という意味だからだ。朝廷は自分たちを文明の民と一方的に規定し、東北に生きる異民族をエゾと改んだ。エゾは野蛮人なのだから、この世から消えてなくなるべきであり、それを行なうことは正義だという観点から、エゾに対する
侵略行為を「征伐」とよんだ。「蝦夷征伐」という言葉には、実はそういう意味がこめられている。だからといって、私は、たとえば「東北征討」などといいかえるつもりはない。当時の朝廷がもっていた明白な差別意識が消えてしまうからだ。それでは正しい歴史を教えることにはならない。だから、私はこの時代に行なわれた「エゾへの侵略」を、以上のような注釈付きで「蝦夷征伐」とよぶことにする。ちなみに、同じような言葉に「帰化人」がある。歴史にくわしい読者なら、あるいはお気づきかもしれないが、帰化人といっていたのを、最近は「渡来人」とよんでいる。不思議に思っている方も多々あると思うので、その理由を解説すると、ひと言でいえば、「帰化人は失礼ないい方だから渡来人に「あらためる」というのである。
もっとわかりやすくいえば――。そもそも「帰化」という本来の意味は、「文明の低い国の人間が高い国を慕って同化する」だ。よって、当時の日本より文明度の高かった朝鮮半島や中国大陸から日本に渡来し永住した人々をそうよぶのはおかしい。こういうことになる。
この議論に用いられている個々の事実は、けっして間違っていない。帰化という言葉の意味が、本来はそうだということも、日本の文明度が低かったのも事実である。にもかかわらず、私は帰化人という言葉を消すのは正しくないと考えている。理由はおわかりであろう。日本の朝廷が当時、彼らのことを帰化人とよんでいたからだ(正確には帰化をキカと読まず大和言葉で発音したらしい。だが、意味は同じである)。
当時の公家たちは、日本のほうが文明度が低いことを知っていながら、あえて彼らのことを帰化人と差別的によんでいたわけである。これを「つっぱり」と解釈するか、「思いあがり」と解釈するか、検討の余地はあるが、とにかくそういっていたのだから、まずそれを教えるべきである。それがほんとうの意味の歴史教育だろう。
彼らは文明の本場から来た。そしてこの回に優れた文物を教えた。にもかかわらず、差別的な名称でよばれたことは、明記しておく必要がある。

このブクマでも「蝦夷」の話でてくるな

山本ともひろ℗ on Twitter: "午前、自民党文科部会を開催。九州大学の川本芳昭名誉教授から「邪馬台国・卑弥呼の呼称と国号日本との関係」と題して講演して頂き、邪(よこしま)、卑(いやしい)は、当時の中国が周辺国を文明が劣ったものとして蔑称の意味でそれらの文字を当て… https://t.co/4rMmEQnIzy"

いま知ったんか。小学校で習うだろ。 ちなみに、大和民族が北海道を「蝦夷」と呼んだのも、その中国の例に倣ったものだ。

2022/04/30 06:52
b.hatena.ne.jp


わかりる?
実は自民党の、ものを知らない今回の議員が、仮に「卑弥呼」の言葉を変えるという主張になるとしたら… これは「IF」話だからあれだけど、

そういう主張と、井沢元彦は根本のところで対立してるのよ。


さて、逆に、ブクマで自民のこのものをしらぬ議員を嗤った皆さん、「帰化人」とかはどう考えるかな。
b.hatena.ne.jp



本当は、そもそも蔑視の意味すらない「支那」や「鮮人(挑戦の略称としての「鮮」)」の問題にも繋がるのだろうけど、そっちはあとで書こうかな。

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そういえば、たとえば「元寇」もそうだけど、朝鮮征伐とかそういうのも「当時は言われなかった」「その言葉はあとから出てきた」ということもあるそうで。変更してより、当時の言葉にしたって場合も在るとか。

元寇という呼称
「元」
モンゴル帝国第5代皇帝・クビライが日本宛に作成させた蒙古国書の冒頭に「大蒙古国皇帝」とあり、モンゴル帝国の漢語自称であった「大蒙古国」(モンゴル語の Yeke Monγol Ulus を訳したもの)が初見される。これらの呼称は1268年(文永5年・至元5年)正月に、クビライの命によって高麗から派遣された使者が、大宰府において口頭と書面によって「蒙古」の存在を伝達したことで、日本側にも知られるようになった。『深心院関白記』『勘仲記』といった当時の公家の日記にも「蒙古」の呼称が用いられている。
1271年12月18日(文永8年・至元8年)、クビライは国号を漢語で「大元」(モンゴル語では「大元大モンゴル国」(Dai-Ön Yeke Monγol Ulus))と改めるが、鎌倉時代の日本では「蒙古」という呼称が一般化していたため、「元・大元」等の呼称は用いられなかった。
江戸時代に入ると『元史』などの漢籍が輸入され、明朝における元朝の略称である「元」という呼称、また、クビライを指して「胡主」・「胡元」といった遊牧勢力に対する貶称(へんしょう)も用いられるようになる。
「寇」
「寇」とは、「外敵」という意味で、「寇(あだ)す」つまり「侵略する」を名詞に表した文字である[49]。歴史学者川添昭二は、この表現が江戸後期に出現した背景としては、アヘン戦争で清がイギリス帝国に敗れたことや日本近海に西洋列強の船舶の来航が頻発したため、当時の日本の知識人の間で、「外夷」に対する「対外意識」高揚があり、過去の蒙古襲来についてもその文脈で見るようになったと指摘している[50]。
幕末に流行した頼山陽の『日本外史』では、弘安の役について「元主(クビライ)、我が再び使者を誅するを聞き、則ち憤恚して、大に舟師を発し、漢・胡・韓の兵凡そ十余万人を合して、范文虎を以てこれに将とし、入寇せしむ」と表現している。
元・高麗側の呼称
元や高麗の文献では、日本侵攻を「征東(または東征)」「日本を征す」「日本之役」などと表記している。

新たな呼称案
近年では「元寇」の他にも「蒙古襲来」、「モンゴル襲来」なども使用される[51]。「文永の役」・「弘安の役」についても、元・高麗側資料とも共通の名称を図るため、一部で1274年と1281年の干支に因んで「甲戌(こうじゅつ)・辛巳(しんし)の役」という呼称が提案されているが[52]、一般的ではない。
ja.wikipedia.org

名称
豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、この戦役が秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣[注 12]」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた[18]。秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」[18] という表現もあった。

「朝鮮征伐」という表現も歴史的に頻繁に用いられてきた。これはすでに江戸初期の1659年(草稿成立は1644年頃[19])に刊行された堀杏庵(堀正意)『朝鮮征伐記』において見られた。この戦役を征伐とする立場は後述する倭乱の逆バージョンであるが、北条氏直を攻めた小田原征伐島津義久を攻めた九州征伐などでも用いられており、朝鮮だからとことさら卑下して表現したわけではないし、韓国では現在でも元寇を「麗蒙の日本征伐」と呼んでいる[20]。堀杏庵は、秀吉は民の苦しみを顧みずに戦役を行ったとして撫民仁政の思想から批判した[19] が、征伐そのものを否定したわけではなく、江戸期の絵本太閤記や明治期のその他の歴史書籍の多くにおいて、朝鮮征伐は単純に秀吉の武勇伝の一つと捉えられていた[18]。これは江戸中期の学者山鹿素行が提唱した朝鮮を日本の属国と定義した史観(中朝事実)[注 13] や、江戸後期の日本史研究を主導した水戸学者たちが秀吉が死去しなければ明も日本領になっていたとの考えが影響しており[18]、彼の野望は称賛されこそすれ、批判の対象ではなかったからである。明治初期に起こった征韓論に伴ってこの戦役も「征韓の役」などと呼ばれたこともあったが、これは島津綱久が万治年間(1658-60年)に編纂を命じた『征韓録』が先であり、幕末の水戸学者川口長孺なども『征韓偉略』(1831年)を著した。征韓は意味としては朝鮮征伐と同義である。

朝鮮出兵」の呼称も早くからあり、戦後も昭和期には教科書で広く使われていたが、出兵の表現も次第に避けられるようになっている[注 14]。1960年代の世相を反映して、朝鮮出兵が海外侵略であったということが強く意識された結果、朝鮮社会が受けた被害にもより関心が持たれ、「朝鮮侵略」[注 15] が盛んに使われた時期もあり[18]、「大陸侵攻」などの表現も登場した。1980年代になると史学では多角的分析が主流になるが、1990年代になると日韓の文化交流が解禁されて韓国の書籍が翻訳されるなどし、後述の朝鮮での呼称も日本の書籍でみられるようになって、用語は多様化した。近年の日韓関係を反映して、教科書等の記述にはかなり変動があったわけであるが、現在は、第一次出兵を「文禄の役」として第二次出兵を「慶長の役」とし、併せて「文禄・慶長の役」とする呼称で定着している。また略称としては単に、前役、後役とも言う。

中国では「朝鮮之役(朝鮮役)」と呼ばれるが、後者は朝鮮戦争(または朝鮮での戦役)という意味であり、1950年の同名の戦争やその他の朝鮮での戦争と区別する意味で、近代以降、当時の元号である万暦を付けて「萬曆朝鮮之役」と称されている[18]。日本で書き言葉に漢文が使われていた影響で「朝鮮役」という呼称も古くは使われたが、これはこの中国語の呼称をそのまま用いたものであった。中国から見て遠征であったという解釈では「萬曆東征」という呼称もある。また「萬暦日本役」という呼称もあったとされるが、戦地を戦役名とするのが慣習であり、現在はあまり使われていない。現代では「抗倭援朝」とも呼ばれる。

朝鮮半島(韓国・北朝鮮)では李王朝の時代から、この戦役も小中華思想を基にして従来通りに倭乱[注 16] であると定義し、戦乱が起こった時の干支を取って、文禄の役を「壬辰倭乱」[注 17] と呼び、慶長の役を「丁酉倭乱」[注 18] または「丁酉再乱」[注 19] と呼んだ。現在も韓国ではこの倭乱が用いられており、2つの戦役を一つと見て壬辰倭乱を戦争全体の総称として使う場合もある。また、北朝鮮では「壬辰祖国戦争」[注 20] と言う呼称も用いられる。

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