INVISIBLE Dojo. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「友達とバーを経営した。1ミリも儲からず、大赤字も出ず。3年間、夜ただで酒を飲める場ができただけ」〜【大人のおとぎばなし】じゃん!というかトキワ荘「スタジオゼロ」のバー版じゃん

冒頭だけ埋め込みで、残りはコピペ形式で紹介


野球くん
@unoubaseball

話しているうちにマスターも酒がすすみ、早く田舎に帰りたい、儲けもなかったし造作も売れなくてムカつく、など色々喋って最後は値段相談するんで買ってくれる人いれば紹介してくださいと言われたので、その場で全部込みで150万円なら買いますと言いました。マスターは「ちょっと考えます」と。


連絡先を交換してその日は帰りました。翌日夕方には電話があり「掲載サイトの会社、不動産屋に造作の買主が見つかったのでと連絡しました。いつでも大丈夫です。」と。マスターは好意なのか天然なのか150万円の中には敷金3ヶ月分も入れてくれててその日のメシがめちゃくちゃ美味かったのを思い出します


テレビを取り付けて保健所になんか届出出して友達が食品衛生管理のなんかとってスノコで看板作って本当に20万円くらいで始めることができました。こうしてトータル150万円でバーオーナーになったのですが、小さいバーなので大きな赤字にはなりませんが、3年間、本当に1ミリも儲かりませんでした。


僕も友達も子供が産まれて夜中飲むのはもういいかなというタイミングで、僕と友達は常連さんに同じように「閉店するんで」って話をしました。「誰かやりたい人いないっすかね?」とLINEで話を振り始めました。売値は300万円。3年間のトータルの収支は確か−87万円で、指値されて200万円でトントン。


数日経って内見依頼が何件か来た。クラブへ行く前にアップをするための会員制バーをやるというキラキラした30中盤のお姉さんだった。「少しお値段相談できますか?」「50万円くらいなら」「わかりました買います」「(くそっ。300いけたかも...)」と、その場で決まり僕たちのバー経営終了しました。


3年間、友達は売上から経費を引いた額が給与。僕はただで酒が飲めるという権利があるだけのバー経営。最後に50万円もらってパーっと飲んで終わりました。今頃持ってたら協力金やら助成金やら...という思いはなくもありませんがまあ勝負弱さは昔からなんでしょうがない。


ということで造作はモノを買うんではなくて権利を買うんだということを身をもって感じました。設備が使える使えないとか、新しい古いなどは全く関係ないんですね。関係があるとしたら不動産市況とか街の盛り上がりのタイミングとかで造作譲渡料は変わりそうです。

わしの感想。


※文中では「男」ですが、これは女性もその他の性も含む概念です(上野千鶴子流論法)


まあ、本人もちょっと自覚してて、失敗談のように見せて、ドヤ、ドヤな思いも絶対あるだろう(笑)


最終的に赤字か黒字かトントンかは、神のみぞ知るだから、そんなの狙ってできるわけでもないが、思い出すのが藤子不二雄コンビや石ノ森章太郎赤塚不二夫つのだじろうらまで加わった「トキワ荘延長戦」としての「スタジオ・ゼロ


これも何本も実際にアニメを制作し、日本文化史に残る大傑作なども生みだしたものの、みなの本業も多忙になり、数年後に解散。
そして経費を精算し資材などを売り払ったら、綺麗に収支は「ゼロ」だった……というのが、藤子不二雄A先生らがこぞって口にする綺麗なオチの話。


鈴木伸一石森章太郎つのだじろう、角田喜代一(つのだじろうの兄。電通勤務)、藤子不二雄安孫子素雄藤本弘)と一人の社員により設立、のちに赤塚不二夫も参加。

トキワ荘時代よもう一度」という触れ込みで、手塚治虫が設立したアニメ会社虫プロダクションの様なアニメを作る会社を、すでにアニメ制作にたずさわっていた鈴木伸一を中心として1963年(昭和38年)5月8日に設立された。当初の社屋は、東京・中野の旧ボクシングジムを借りていた。余りにも傷みの酷い建物だったため、「スタジオ・ボロ」と仲間内から揶揄されていたという。その後、1965年(昭和40年)に新宿区淀橋(十二社、現・西新宿)の市川ビル内に移転している。

当初は役員5名、社員1名という体制で、任期2年の社長の順番はあみだくじで決定した。初代社長の鈴木から第2代社長のつのだじろうを経て、第3代の藤本のときに最盛期を迎え、第4代社長石森のときに解散した。

やがて漫画家たちが雑誌部の立ち上げで多忙になるにつれて鈴木以外はアニメには関われなくなり、アニメ専業の社員を増やしていく。その最盛期には100人近くの社員が在籍していた。しかし、アニメ制作部門がスポンサー降板などの理由のため仕事が減り、その社員も次第に他社へ引き抜かれてしまい、1971年(昭和46年)に実質的に解散状態となる。その際にされた清算は奇しくも0円だったという。その後は鈴木伸一の個人事務所として、法人格と名称のみが継承された。

新宿・十二社の市川ビル時代にはスタジオゼロだけでなく藤子不二雄藤子スタジオ)、赤塚不二夫(フジオ・プロ)、つのだじろうつのだじろうプロ。現 秦企画)のそれぞれのプロダクションも入居していた。藤子スタジオは真面目に原稿作業をしている、隣のフジオ・プロでは赤塚が銀玉鉄砲でアシスタントらと撃ち合って遊んでいるようなこともあり、そうした際には温厚で知られる藤子・F・不二雄が「うるさい!」と怒ったこともあるという。

スタジオ・ゼロが鈴木の個人事業状態となり、各プロダクションが引っ越した後も市川ビルにはそのまま「スタジオ・ゼロ」の文字が掲げられていたが、2003年9月に解体された。

ja.wikipedia.org

このことを描いた物語が 藤子・F・不二雄全集『オバケのQ太郎』第11巻に収録されていました

スタジオ・ゼロは大人のおとぎばなし。仲間と「遊び場」のような会社をやって、収支トントンで綺麗に幕引き…



ということでこの話を、私的に命名している【大人のおとぎばなし】のひとつと認定し、以下のリンク集にも追加いたします。
m-dojo.hatenadiary.com


【大人のおとぎばなし】は ※準タグです。この言葉でブログ内を検索すると関連記事が読めます