アントニオ猪木氏と「昭和の巌流島」と呼ばれる名勝負を繰り広げたことで知られる元プロレスラーのストロング小林こと小林省三さんが死去していたことが分かった。81歳だった。
近しい関係者によれば小林さんは昨年末に都内の病院で亡くなった。死因は不明だという。
(略)
…新日本プロレス、WWWFなどで活躍し84年に引退。引退後は「ストロング金剛」の芸名でタレントとしても活躍。芸能活動引退後は脊髄損傷の重傷を負い、数年前から寝たきりの生活を送って
意外と言えば意外なのかもしれないけど、自分はストロング小林の戦う姿を実際に見たという記憶がない。
ちょっと自分でも不思議に思って再確認してみたけど、なるほどブッチャーの移籍やタイガーマスク登場、維新軍の叛逆、国際はぐれ軍団の悪役人気、 IWGP創設…… などで盛り上がり、新しいちびっこ視聴者がついたあのボリュームゾーンの時代のほんの少し前に、腰痛からセミリタイアしていたんだな。
ただ、その当時はプロレスを見るということは、まだ力道山から続いていた日本プロレス史を最初からおさらいすることが十分可能だった時代である。プロレスと言ったってコンテンツの絶対量がそれほどでもなかったから、おなじみ梶原一騎や桜井康夫の読み物、雑誌が繰り返し語る企画記事などを含めて猪木や馬場の「過去」も…まだ当時では10年程度しか経っていない話だ…十分知ることができた。
その時に必ず「アントニオ猪木対ストロング小林、昭和巌流島」の一戦は語られていた。
国際プロレスを離脱し、日本一を決めようとストロング小林が猪木に挑戦(ジャイアント馬場は「逃げた」とされた)、パワー殺法で追い詰めたが「血染めのジャーマン」によって劇的勝利した……。
この神話は飽きるほど語られ、見てない私でも十分にお話を知っているのであります(笑)。
(略)…療養中の猪木氏はコメントを発表。
「ストロング小林選手のご冥福を心よりお祈り致します。小林選手との一戦は『昭和の巌流島』と呼ばれ、入り切れないほどの多くの観衆に観ていただきました。小林選手もこの試合を人生最高の試合と言ってくれ、私も格別な思いがあります。お互い、若くベストな時に勝負ができたことが走馬灯のように思い出されます。ストロング小林選手、ありがとう」
https://news.yahoo.co.jp/articles/45acf8acde6039b080784ea4995ad4487e80d800news.yahoo.co.jp
【追記】この試合が無料配信された。(2022年1月現在)
哀悼の意を込めて、ストロング小林さんの試合を #新日本プロレスワールド で“無料公開”いたします。
— njpwworld (@njpwworld) January 7, 2022
視聴はこちら
⇒https://t.co/jmBRnNkJjr
"昭和の巌流島"
1974年3月19日 蔵前国技館
NWF世界ヘビー級選手権
アントニオ猪木 VS ストロング小林#njpw #njpwworld pic.twitter.com/ScpzP2wwDw
ん-と、新日本プロレスワールドが無料配信のときでも、はてなからの直リンクはできないようだね?上に埋め込んだツイートからのリンクでどうぞ
https://njpwworld.com/p/s_series_00003_1_1
あと、こっちはめちゃくちゃ細かい話で、当然これも見てるわけないけど「日本人初の覆面レスラーは実はストロング小林。デビュー当時『覆面太郎』を名乗り、負けたら覆面を取るというのを売りにしていたが結局無敗のまま自らマスクを脱いだ」という小ネタも、「プロレスものしり百科」的な本でお馴染みの知識でした(笑)。
そういう雑誌記事の「最新情報」として、彼は腰を痛めて戦線離脱し、映画俳優としてその役名を逆に芸名として「ストロング金剛」になったという話もどこかで聞いて納得していたんだな。
さらにこれ Wikipedia で読んで思い出したんだけど、一時、「国際はぐれ軍団」と結託、場外で猪木を押さえつけ、卑怯未練なラッシャー木村やアニマル浜口が、我らがアントニオ猪木の髪の毛をハサミで切るのを手伝う振る舞いをした……という一件もありました。どうもこの時期、復帰できるかできないか色々と模索があったけれど、最終的にはプロレスに戻るのを諦めた、ということだったらしいです。国際プロレスの面々とは本当だったらわだかまりもあったかもしれないけど、案外現場的には「離脱するのもわかるよな」なんて同情や連帯感があったりしたかもしれない。そもそも小林、木村、浜口、寺西と善人揃いだしね ……。
ストロング小林のプロレスラーとしての位置づけを、そうやって実際に試合を見ないまま、文件的資料だけで語るんだけど、実はヨーロッパやアメリカでも結構高く評価されたポジションについていたのだから、ボディビルあがりと言うだけではない優れたプロレスセンスを身につけていたんだと思う。
ただそれでもやっぱり日本では、 どうもパワーそれ自体を売りにしたようなファイターはトップ中のトップにはなかなか立っていない…豊登もエースの座を保てなかったわけだし。
「ハラが減っても焼肉もくえん。やるだけソンだ!!」
そういう点で…国際プロレスを飛び出したのは直接的には人間関係などもあった(具体的にはグレート草津との確執)らしいんだけど、自分のブランドを乾坤一擲の大一番である「vsアントニオ猪木」に全額ベットし、もちろん負けと言う結果も受け入れて、その後、長年にわたり「猪木・坂口につぐ第三の男」という役どころに落ち着いたというのは、本人のポテンシャルから逆算して考えても、最高の選択だったんじゃないかな。
例えて言えば 「YouTube 」のような、頭角を現したインディ系の創業者が、その事業を「Google」に 売却したようなもので、確かにそのまま頑張って経営を続けていれば、 YouTube は独立企業としてもっと巨大になり、創業者も大きな富を手にしたかもしれない。だが巨大企業の一部となったことで、失敗リスクも回避し、富や地位でも十分なものを手にすることができた…プロレスラーとしての歩みは、それに近いような、幸せなものだったんじゃないだろうか。
もちろんアントニオ猪木は例によってエグいので(笑)「新日本第三の男」というレスラーを、ここぞという時にはうまく負け役に使った。
「あの小林がボコボコにやられた!この外人はつえーぞ…でもやっぱり猪木が仇をうってくれた!やっぱりアントニオ猪木は地上最強だ!!」みたいな仕事を彼にしてもらったわけが、それも込みでウィンウィンですよ。
【追記】文春オンライン記事をこの後読んだのだが、プロレススーパースター列伝でも描かれた小林vsホーガン戦は、やはり3分での負けという扱いに「気持ちが切れた」「尊厳を傷つけられた」と感じたとのこと
……小林さんの気持ちが切れたのは1980年、「超人」ハルク・ホーガンのテレビマッチの日本デビュー戦の相手をつとめたときのことである。小林さんはまったく自分の技を出せず一方的に攻められ、わずか4分足らずで3カウントを聞くことになった。
「確かに彼はアメリカで売り出し中の選手であったけれど、当時はまだプロレスを知らないグリーンボーイですよ。新日本からも何の説明もなくて、ああ、これがいまの自分の置かれた現実なんだなと思いました。もちろん、腰を痛めていたこともあって精彩を欠いていたのは自分でも分かっていました。でも、どうしても割り切れないところがあったんですね」
圧倒的な勝利を飾ったホーガンは、たちまち新日本のリングにおけるトップ外国人選手となり、1982年には映画『ロッキー3』にも出演。アメリカンドリームを体現した。考えようによっては、ホーガンを格上げするには相手にも相応の「格」が必要であり、当時の新日本が小林さんを低く評価していたとは必ずしも言い切れないが、3分で試合終了となったことは「国際の元エース」の尊厳を…(略)
https://news.yahoo.co.jp/articles/a999bae5ac3faf7b64eeb05c14b4312ce209c4ebnews.yahoo.co.jp
そして一般的には「風雲たけし城」となるのだろうけど、自分はそれを見てなかったんだよね。
そしてはっきり、自分が印象に残っているのは「超電子バイオマン」の敵幹部「モンスター」だった。
この時も「元プロレスラーで、恵まれた体格を生かして悪役をやってるんだな」という認識こみで見ていたはずだけど、ごく自然に溶け込んでいて、いわゆる「大男 総身に知恵が回りかね」的な、凶暴だけど間抜けなコメディリリーフでもあるという役どころを上手く演じていた。
でさ、観測範囲の問題もあるかと思いますが、「バイオマン」で戦隊シリーズの中でも屈指に面白かったと思うんですよ。と言うか、この辺から数シリーズ使って、色々実験した結果「うん、やっぱり戦隊シリーズはあんまりシリアスなのはよくねーよな…」となって、もう少し子供向け・コメディっぽいものが中止になったので、なんというかある一時代のスポーツカーのように「そういう傾向を好む人は、この時代のモノしかない」みたいな、そういう「シリアス時代の傑作」ですよネ、バイオマン。
で、バイオマンの新基軸の一つとして「等身大の怪人が巨大化して怪獣になるんじゃなくて、巨大ロボの相手は単独の巨大敵ロボット(メカジャイガン)。等身大怪人は、5体のレギュラー怪人(ジューノイド五獣士)が繰り返し出撃する」というのがあった。
そしてさらに、戦隊シリーズお馴染みの「途中で敵がパワーアップし、ヒーローたちが窮地に陥る」という展開の中で、上記5獣士が3獣士に変わる…という展開がありましてね。
それは意図的にその5人を窮地に陥らせて、生き残ったやつらだけ強化する、という冷酷な計画で、5人のうち2人は自力で帰還したのだが、モンスター直属の部下みたいな「ジュウオウ」ふくめ3人は戻ってこられなかった。
しかしモンスターはそれを我慢できず、自らそのジュウオウの残骸を拾い集め、なんとか直してくれとボスに懇願、特例的にジュウオウも復活する……という、ちょっと細かいエピソードがあったんです。
この時のストロング小林の演技は、多分すごく印象的な名演技だったのだろう。なぜならこうやって覚えていて、ソラで語れるんだから(笑)
そんなストロング「金剛」も、最後にもう一度芸名も元に戻し「ストロング小林」として…寝たきりに近い状態となった最晩年(つい最近の話だ)に、思い直したような形で取材を受け入れ、現状を報告し思い出話をもう一度語ったあと、旅だってゆかれた。
激動の人生だったろうが、その存在感は、今の日本のプロレスの土台の、間違いなく大きな一部となっている。おつかれさまでした。