「炭焼きするのに学問は要らない」というのは、裏返せば「長男に学問は要らない」ということだ。
— すぽんちゅ (@OGmk23797) October 22, 2020
現代では長男にこそ高等教育を施すものだが、昔の日本では、長男とは教育云々よりも前に家業を継がせる存在だったので、どうせ外に出ていってしまう次男以降の方が、長男よりよく教育された例が多い。
だから今日において「長男だからみんな我慢できる」と豪語する炭治郎に「???」を思い浮かべる現代っ子は多いだろうが、本当にそうなのだ。
— すぽんちゅ (@OGmk23797) 2020年10月22日
炭治郎はあんなことがなければ、弟たちの学費を稼ぐだけの炭焼きとして一生を終えていただろう。
長子相続制とはそういうことだ。
「鬼滅の刃」何度も書いたように自分は浅い読者なのに、こうもネタにしてすいません。
しかしまあ、このセリフをどっか経由で聞いたときは、感心したと同時に、「よくとおったなこのネーム」とも思いました。大正期の家父長制としてはさもありなんだが、読者の共感を重んじるジャンプ漫画としては、こうやって話題になるほど「特異」なものです。大正時代であるという時代背景を感じさせるものは、そもそも作品的にあるようでないんだけど、このセリフは「ああ、時代は大正なんだな」と思わせるものでした。
上に書いてあることは一方で、やはり長男は「家の財産、屋敷田畑」を継ぐ、という意味合いでもある。食うのも大変な時代はそれこそがまさにメリットで、次男には代わりに高等教育、なんてのはまだいい家の話。次男はなんとか食う当てを見つけての丁稚奉公や部屋住みの実質、家庭内奴隷…なんてこともあった。
必死に歯を食いしばって彼らの面倒を見てあげるのは、炭次郎がいい子だからですわ。ほんと、あのまま平和だったら、小さいころから家計を一手に引き受けて、生涯を送ったであろう。
そんな長男であるかどうかは運しだい。
かといって、優秀な子が長幼の序に関係なく後継者に選ばれる、というやり方や、兄弟が平等に親の財産を細分化して分配する、なんてやり方は…俗説ともいわれるが「タワケ(田分け)」になってしまうだけだろうしね。
世界史を勉強したとき、フランク王国やモンゴル帝国が、「先代が死亡したので、兄弟で分割相続した結果、国が分割されて三つの国が誕生した」とか聞いた時、目を丸くして驚いたもんだったなあ。
そういえば、菅義偉首相の経歴も、このへんの長男として家を継ぐだの継がないだのといった話が関係していたんだっけ。
同じ秋田出身で、そして農家という家業を離れたことでも共通している矢口高雄の各種の漫画も、このへんの長男意識が強烈に感じられるような話が多い。そして重い。
(矢口氏は、同じ秋田で上京して成功した菅氏をどうみているのか?どこかぜひとも聞いてほしい)
いまもまだアマゾンキンドル・アンリミテッドでの矢口作品読み放題は続いているのかな?続いているならこのへんの「長男意識」にも注目しつつ読んでみて
数か月前にレビューをいくつか書いた。
m-dojo.hatenadiary.com
ある作品で、とある長男と長女の悲恋物語を矢口先生が描いた時、近代的価値観を持つ読者は「二人に何もかも捨てて駆け落ちさせろ!」と手紙をバンバン送り付けたのだが、矢口氏は「そりゃ無理でしょ」と信念を揺るがさず、二人の恋を終わらせた。それは「長男だから、長女だから」という意識は間違いなくあった…というか、それですべて説明完了、二人の恋が成就しないのは当然でしょ、ぐらいの勢いなのである
結局こういう問題は、「経済成長」と家庭の価値観の近代化によってなんとか一時の解消を見た、のでしょうね。
その結果、鬼と対峙しても揺らがない、長男ゆえの鋼の精神もなくなった。
それはプラス面もマイナス面もあるが、不可避だったのだろう…と思いました。