2016年の記事です。
自分もこの記事のこと、正直覚えていなかったのですが、このブログが移転した「はてなブログ」は「アクセス解析」の機能がはてなダイアリーより充実しており、グーグルからこの記事にアクセスが多いよ、と教えてくれました(それで過去記事思い出すことが自分でも増えている)。
そこにリンクを張った方がいいかもしれませんが、そのひと手間で読まない人も多いので、以下、記事を「再放送」します。
【2016年の記事…相模原・障害者施設大量殺傷事件の時の記事です】
障害者施設で入所者刺される 容疑者は26歳の男
7月26日 7時10分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160726/k10010608851000.html
相模原市緑区の障害者施設で入所者などが刺され、これまでに15人が死亡した事件で、警察によりますと、殺人未遂などの疑いで逮捕されたのは、植松聖容疑者(26)だということです。この施設の元職員だと話しているということで、警察は詳しい状況を調べています。
【動画】アフガン難民による切りつけ事件に続き… #ドイツ でシリア難民が自爆(動画) https://t.co/horWk6sjtg
— ハフィントンポスト日本版 (@HuffPostJapan) 2016年7月25日
ドイツ・バイエルン州アンスバッハの自爆テロ事件で、死亡した犯人のスマホに、過激武装勢力ISILに忠誠を誓う犯人のビデオが残されていたとバイエルン州治安当局者が発表。AP通信報道。 https://t.co/m127U4G6Jm
— deepthroat (@gloomynews) 2016年7月25日
それぞれにお悔やみ、お見舞いを申し上げたい。
そして
犯人の特性も性質もまったく違うので、どっかの知事候補者の「勘ですけど」レベルの話として聞いてくださっていいのだけど…wikipedia:ウェルテル効果
ウェルテル効果(英: Werther effect)とは、マスメディアの自殺報道に影響されて自殺が増える事象を指し、これを実証した社会学者のPhilipsにより命名された[1]。特に若年層が影響を受けやすいとされる[1]。
「ウェルテル」は、ゲーテ著の『若きウェルテルの悩み』(1774年)に由来する。本作の主人公、ウェルテルは最終的に自殺をするが、これに影響された若者達が彼と同じ方法で自殺した事象を起源とする[2]。なお、これが原因となり、いくつかの国でこの本は発禁処分となった[2]。但し、実在の人物のみならず、小説等によるフィクションの自殺も「ウェルテル効果」を起こすか否かについては諸説別れている[1]。
WHOに基づき、厚生省も勧告している。
主に米国やヨーロッパで、「自殺攻撃」「最後は自分も死ぬような大量無差別殺人」が起き続けているいま……この「ウェルテル効果」に類するようなことはないだろうか?
って、仮定を言ってもめちゃくちゃ難しい。
だって、自爆テロが相次ぐヨーロッパのアレは、WTOや厚生省が出てくるような医学的(肉体的、動物的といいかえてもいい)な問題ではなく、純粋にISの思想や宗教性に共感し、(こういうときに使いたくない言葉だが)自由と理性の中の自己選択として行った、というのとどう区別をつけていいのかわからないからだ。
しかし、たとえばISに忠誠を誓う映像が残っていたとしても、ロッキード事件のときに児玉誉志夫邸にセスナに突っ込んでいった俳優もそうだが…安っぽいヒロイズムや事故破滅願望、宮台真司氏はラジオで端的に「世の中くそくらえ野郎」と言っていたが…彼らの言い訳、装飾、ファッションなんじゃないか?というのも検証しなければならない。
しかし、
「最後は俺は死んじゃえばいいや、どうせなら…」「むしろ死刑にしてくれ!」という”世の中くそくらえ野郎”は池田小学校事件の犯人のように、重大犯罪と自殺の区別すらあいまいだ。もし、自殺の範疇ならウェルテル効果は…
というか「ウェルテル効果」自体が例外的な話で、人間の自由意志っぽい行動を「それは自由意志ではない」とツッコんでいるのだよね。
カルトのマインドコントロールも「マインドコントロール自体が科学的に存在しているのか?」が争うご時世。
万引きやギャンブルだって「依存症」的な病気なのか、ただの自由な人間の愚かな行為なのか……
もし大量殺人に報道による誘発性があるなら、大量殺人事件の報道も抑制されるべきか?
すでに何度も記事を書いたことがあるから略する。リンクをのみ。
■「医学的合理性」は正義不正義の上に立つのだ。自殺報道も含め
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080429#p6
■[時事][犯罪][科学]自殺の連鎖について
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20061113#p2
■朝まで生テレビより 子供の「自殺問題」と「いじめ問題」は別なりと。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20061125#p3が、WHO勧告に基づく報道の規制、自粛というのは実に例外的なことなのだ。
つまり「科学(誘発するよという知見)が、民主主義(報道の自由)の上に立つ」という事例………伝染病への対処政策はしばしば民主主義の理念とは遠くかけ離れているが。
その場合、まず誘発性をどう証明するか。ウェルテル効果だって証明までには大変な議論があったという
そして、そういう重大犯罪を「報道しない」という政策はなりたつか?
あ、過去に端的にこのテーマで記事書いていた。忘れていたよ。
秋葉原通り魔殺人事件……事件が事件を呼び続く可能性は? - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080609/p3
もっとも、ドイツなどの事件にでもそうだが、現在犯人とされる人にもし医学的な問題があり、責任能力がないならまた別。その場合は、適切な治療による治癒と社会復帰を祈る。(※それは報道されないかぎり、前提にする必要はない)
関連記事
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160220/p1
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120429/p3
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130110/p3
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130405/p5
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140129/p2追記 小田嶋隆氏もその後、同様のことをかいた
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/072800053
この種の報道は、植松容疑者と同質の願望を抱いている不安定な予備軍に、大変によくない暗示を与えている。WHOは、自殺予防の手引として、いくつかのガイドラインを作成している。
そのうちのひとつに、自殺報道に関しての手引きというものがある。この手引きの中で、WHOは、センセーショナルな自殺報道や、自殺を問題解決のひとつであるかのように伝えるニュースの作り方が、潜在的な自殺志願者を自殺の実行に導き得ることを示唆しつつ、報道関係者に、過大な自殺報道の自粛を呼びかけている。
詳しくは内閣府のホームページに、その内容が紹介されている(こちら)。
自殺報道と犯罪報道を同一視することはできない。
それでも、犯罪報道においても、あるタイプの大量殺人者を過大に扱う態度が、模倣犯を誘発する可能性は、考慮されなければならないとは思う。
その点から考えると、いま繰り返されている植松劇場は、派手過ぎる。
まるでボニーとクライドみたいだ。
2019年追記 小田嶋隆氏も再び論じた&それへの当方の論評
「死にたい」と一瞬でも考えたことのある人間の数はもしかしたら、日本人の半数を超えるかもしれない。
そういう人々にとって
「死にたいなら一人で死ね」
という言葉は、自死を促すスイッチになりかねない。私はそのことを強く懸念する。
上記で紹介した罵倒とは別に、私のアカウントに寄せられたリプライの中には
「あなたの言いたいことはよくわかるし、もっともだとも思う。ただ、いまがそれを言うべき時であるのかを考えてほしい。あなたの主張は被害者遺族に対して配慮を欠いた物言いではないだろうか」という感じのやんわりとした指摘もあった。
もっと強い言い方で同じ趣旨のことを言ってくる人は、もっとたくさんいた。
おそらく彼らが指摘したかったのは、
「犯人への憎悪と怒りが渦巻いている空気の中で、その空気に水を差す発言は、結果として犯人サイドを擁護することになるのではないか」
「一番寄り添わなければならないのは、被害者であり被害者の遺族であるはずなのに、どうして事件が起きた当日に犯人やその予備軍に配慮した発言を発信しているのか」というようなお話なのだと思う。
毎度のことだが、この種の扇情的な事件が起こると、マスメディアもそうだが、特にネットメディアは、その「扇情」をさらに煽りにかかる傾きを持っている。
ちょっと前に「弱者憑依」というなんともいやらしい言葉がちょっとバズったことがあって、私はこの言葉が大嫌いなのだが、今回のようなこの種の事件に際しては、毎度「被害者憑依」「被害者遺族憑依」とでも言うべき感情のアンプリファイが横行することになっている。
どういうことなのかというと、
「被害者に寄り添う」
という大義名分のもとに、犯人への憎悪や、事件への怒りや憤りを共有し増幅し、煽り立て、それらの感情的な同調をメディアぐるみで消費することで、あるカタルシスを得る運動が勃発するということだ。
引用前半の「死にたいならひとりで死ね」が、背中を押すスイッチになる云々というのは、自分が既に述べたように変形の「ウェルテル効果」があるのではないかといういわば医学的な問題なので、異論を申し述べる部分ではないが、後半を論評したい。(ブクマでも書いたが字数が足りぬ)
・藤田氏の文を『読んでみて共感できなかったにしても、口汚く罵倒したり…中傷したりせねばならないような記事ではない』と言ったそばから/「弱者憑依」という言葉を『なんともいやらしい』『大嫌い』と罵倒してはなァ。(おそらく、この言葉を広く紹介した佐々木俊尚氏との感情のもつれもあるのではないか、と推測する)
・というか、小田嶋隆氏が、その「弱者憑依」を『なんともいやらしい』『大嫌い』と言いつつ、今回、【この種の事件に際しては、毎度「被害者憑依」「被害者遺族憑依」とでも言うべき感情のアンプリファイが横行】と書いたということは、最終的に、この概念と視点の有効性を認めて屈したということだわな。